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カテゴリー「神社・仏閣・史跡(新発田市)」の12件の記事

2017年1月 3日 (火)

新発田の大友稲荷

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以上、EOS80D + TOKINAR AT-X 11-20mm F2.8 PRO DX

2016年5月29日 (日)

護念上人の墓と菅谷寺

渋谷金王丸が仕えた源義朝は、多くの兄弟がありました。
その中の一人、源慈応(=護念上人)は幼くして仏門に入り、比叡山で暮らします。
義朝が亡くなると平家の勢力は増し、彼は帰依していた比叡山無動寺の不動明王像の”御頭”を背負い諸国を行脚。
越後国加地庄菅谷山(新発田市菅谷)まで辿り着くとそこで啓示を得、背負ってきたご本尊を安置することを決意します。
ときに1185年、鎌倉幕府が設立される直前のことであり、比叡山を離れてから26年の歳月が経過していました。
頼朝にとっても護念上人は叔父にあたります。
佐々木源氏の流れを汲む佐々木盛綱~奥山庄を支配していた城氏を破り、要害山に城を築いて当時の加治庄を支配していた人物。彼にとっても護念上人は叔父にあたる~は、鎌倉に幕府を開いた頼朝に護念上人が自分の支配地に来たことを報告、彼の仲介により護念上人は頼朝に会いに鎌倉へ行きます。
そこで頼朝はたいそう感激した言います。
鎌倉滞在4日目に、頼朝は原因不明の病で床に臥せっていた娘の”大姫”の祈祷を依頼。
するとたちまち大姫の体調は回復したということで、頼朝は護念上人に不動尊のために荘園を寄贈したいと申し出ます。
しかし、清貧を旨とする護念上人はこれを固辞、滞在17日後に「都は賑やかすぎて私にはふさわしからず」と言い残し、越後へと帰ります。
承元4年(1210年)には、頼朝の子・源実朝が七堂伽藍を寄進。
建長5年(1253年)、雷火により伽藍は焼失しますが、本尊だけはみたらせの滝にてタニシに守られ無傷だったという有名なエピソードが残されています。

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(みたらせの滝)

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境内に残る、護念上人の碑。
これはあくまで記念碑であり、墓ではありません。
墓は、箱岩峠へ抜けていく道路の途中に案内板が立っていますので(次の写真参照)、そこから杉林の中へ入っていきます。

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往時、伽藍が建ち並んでいた寺境の沢を見下ろす小高い丘の上に、墓は建てられました。

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墓までは徒歩約2~3分。
ふかふかした杉林の中の小道を、800年もの間、どれだけの人が行き来したことでしょう。
林の中へ入ってすぐ、そんなイメージが視覚的に現れました。
なんという心地よさ。
感謝や祈りをもって連綿と人が歩き続けた道は、このように空間が磁化されるのです。

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(37 58 49.6N 139 24 32.5E  標高49.7m)

なんという優しい空間でしょう。
静かに至福の時が過ぎていきます。
正治2年(1200年)、58才で没す。
来年は菅谷寺の、例の不動明王像の7年に一度のご開帳の年(平成29年4月27日~5月22日)。
来年は是非その時期に来てみたいと思います。

2016年5月28日 (土)

王子神社と渋谷金王丸 (4)

(4)金王丸の墓

金王丸の生涯でも書いたように、彼は源義朝に仕えていた時代から剛勇無双の士として知られていました。
そして下石川(新発田市)に土着してからも剛毅な性格は知れ渡り、武芸の腕においても卓越したものがあったと言われています。
坂井川左岸の河岸段丘に共同墓地があり、そこに金王丸の墓と言い伝えられている石碑がひっそり杉林の中に佇んでいます。

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坂井川の方から撮った写真です。
正面の木立の手前に共同墓地があるのがわかります。
こんもりとした特徴的な木立の中に、金王丸の墓があるのです。

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農道に面して、案内板が立っています。
しかしながら、そこから林の中に通じる道は薮に埋もれていました。
右側の側面が薮が浅かったので、そこから中へ入りました。

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(37 57 49.2N 139 24 30.0E  標高43.1m)

なんと石碑が全て草に覆われています。
目を凝らしてみると、全部で5つの石碑があるようです。
地元では鬼の墓として知られてきました。
現代においても突出した能力(特に体力面)を持つ人のことを、あいつは鬼のように・・・と形容したりしますが、彼もユーモアと尊敬を込めてそのように形容されたのかもしれません。
石碑は全て東を向いて立っています。
1992年発行のの新発田郷土史・新発田と周辺の遺石探訪によると、背後の3基は実は仏や菩薩の梵字のみを刻んだ”板碑”で、右から「胎蔵界と金剛界の大日二尊・金剛薩捶」、中央は「阿弥陀仏」、左は上部剥落で不明、下部は不動明王の種字が認められるとのこと。
3基の前面に立つ碑は、正面に「渋谷金王丸」、左の側面に「文政十一年七月」「松田与右エ門立之」と彫られています。

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文政十一年は1828年。金王丸が生きていた時代とは大きく乖離しています。

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最も北側、スギの根元に立つ碑については、どの資料にも言及がありません。
表面を覆っている草を丁寧に取り除いてみたのですが、風化が激しく、文字らしきものは残っていないようでした(上の写真)。
なので、これが唯一金王丸の墓である可能性が残っている石碑です。

2016年5月27日 (金)

王子神社と渋谷金王丸 (3)

(3)能舞台はどこにあったか

下石川(新発田市)に土着した金王丸は、能舞台を作り、自ら能を演じると共に村人たちと能を鑑賞したと言います。
下石川の一角に、今でも残っている舞台という地名の由来はここにありますが、それでは舞台はどこにあったのだろうかと調べてみました。
結論から言うと、文献上ではそれを示唆する文章は出てきません。
それならばと、現地へ追加取材へ行き、あちこち歩いてみました。
手元にあるゼンリンの住宅地図に、詳しく集落としての舞台の範囲が記載されているのですが、そこに神社マークがあります。
ちょうど小高い森か丘のような地形上にそれはあり、現地調査でもすぐにその地形はわかりました。
5月25日のブログ記事で掲載している2枚目の写真で、左端に写っている林がそれです。
拡大してみます。

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何かありそうです。
そこへ至る農道の入り口に次のような案内板が立っていました。

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裏に詳しく内容が書かれてあり、要約すると諏訪神社境内にスギ3本、モミ、シナ、ブナの計6本の巨木があり、それらは六神木として崇められてきたそうです。
昭和55年に、新発田市の保存樹木として指定されたとあります。
ただし、樹齢は最も古いもので350年とあるので、金王丸が生きていた800年前とはかけ離れており、当時の様子は知るべくもありません。

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(37 57 53.4N 139 24 54.4E  標高51.8m)

森の入り口へ行ってみて驚きました。
完全に薮に埋もれています。
しかし、鳥居はしっかり残っており、諏訪神社の文字もまだ風化していません。

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薮は最初の7mが深かったですが、以降は踏み跡がはっきりしてきました。
取り囲むように立っているこれらの木が例のご神木ですね。

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最も高い杉の木の下には、このような案内板も立っていました。

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神社の建物はまだ朽ち果てていません。
意外としっかりしています。
ちなみにこの諏訪神社、”新発田市史”の神社一覧には載っていません。
上石川と中川の境界付近に、神明宮という立派な神社が鎮座するのですが、大正天皇が即位した際、上・下石川と中川の3集落内の諸社を合祀して神明社を建立したそうです。
それからは忘れ去られた存在だったのでしょう。
しかしながら、このように原型を留めているということは、まだ一部の人が参拝していることを暗に物語っています。
おそらくは舞台地区の一部の人々によって。
この一角こそが、金王丸が能舞台を設けた場所ではないかと直感しました。
地形といい立地条件といい、ぼくが金王丸だったらこの場所を選ぶでしょう。
不思議な磁力が神社からは感じられました。

2016年5月26日 (木)

王子神社と渋谷金王丸 (2)

(2)王子神社への行き方

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スキー場のレストハウスまでは、途中のゲートの手前に車を置き、そこから徒歩で40分ほど。ニノックスの広大な初心者用ゲレンデの右端にダートの道がありますから、そこを歩きます。約15分で第一クワッドリフトの終点に着きます。
小道はさらに続いているので、先へ進みます。5分も歩けば堰堤に出ます。
堰堤へ降りる踏み跡を右に見送り、さらに進むとすぐ行き止まりになります。
そこから河原へ降り、対岸へ渡ります。

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ここが徒渉地点。
中央やや右の岩から左側の瀬は深いので、右側の落ち込みを渡ります。
雪代水が落ち着いてきた頃でないと、渡れないでしょう。
身長182cmの私で、太ももの中程まで濡れました。

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渡り終えた対岸から、来た方向を写したもの。
左側の落ち込みを徒渉します。
岩に残置ロープがあることに気づきました。上の写真に写っていますね。
それほど傾斜はきつくないのでロープは必要ないかと思います。
どっちみちかなり古いものらしく、すり切れているので使えませんが。
どうやら、このルートで間違いないようです。
生い茂る草をかき分け進んでいくと、すぐ前方の大きな岩の下に、小さな祠が建っているのが見えてきました。

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オーバーハング状の岩の下に、コンクリート製の祠があります。

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その岩を、横から見るとこんな感じ。
霊気を感じるのですが、重々しいそれではなく、爽やか?な気の流れを感じます。

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今でも参拝者が来ていることを伺わせます。
この中に、今でも義朝の護持仏が安置されているのでしょうか・・・
かなり長い間、そこでまどろんでいたような気がします。
そして、ふと我に返りました。
地形図記載の神社マークはここではありません。
沢の合流点から(実際、右手に小沢が流れています)やせ尾根に取り付き、やや登った段丘の中程に神社があるはず。
地図を片手によく周囲の地形を観察すると、祠のすぐ右手にある尾根の取り付きから踏み跡が伸びているのがわかったので、もう少し歩いてみることにしました。
落ち葉が積もった滑りやすい河岸段丘を、おっかなびっくりトラバースしていきます。
すぐ踏み跡は途切れましたが、進むべき方向ははっきりしているので、迷わず歩き続けました。
すると7~8分で、地図の等高線が示すように、比較的平らな樹海地帯に出ました。
下草は低く、まばらにブナと杉が生えています。
この日はGPS機器を持っていき、要所要所で高度を確認しながら進みました。

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神社は標高525~530mの辺りに建っているはずですが、あまりに気持ちのいい林なので、右手から小沢が合流する標高547mの地点まで歩いてみました。
そこから歩いてきた方向を写したのが上の写真。
かつては、恐らくは戦前まではこの場所から神社の建物が前方奥の方に見えたはず。
建物が残っていないことはすぐわかったので(かなり昔に放棄されたのでは?代わりにアクセスのしやすい、三光川を渡ったところに祠を作ったのではないかと)、遺構を探しながらこの丘を歩き回りました。

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(37 55 4.6N 139 28 47.8E 標高530.9m)

2~3ヶ所候補地があったのですが、その中でここが最もそれらしい場所でした。
不定形の岩や石が散乱しており、標高も丁度531mなのです。

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(37 55 4.5N 139 28 46.4E 標高525.3m)

この場所もかなり怪しいと感じました。やはり、ここも岩が散乱しており、高度的にも条件にかないます。
ところで、神社は木造であったのか、それとも二王子神社手前の祓殿みたいに石造りであったのかわかりませんが、取りあえずほぼ位置を特定することが出来たので、その意味では満足しました。

2016年5月25日 (水)

王子神社と渋谷金王丸 (1)

5月13日、ニノックススキー場(新発田市)奥の山腹に鎮座しているであろう王子神社を探すべく、現地を訪れました(ブログ記事参照)。
そのときは水量豊富な三光川に行く手を阻まれ、1/2.5万地形図に記載されている神社マークの位置まで踏破することはできませんでしたが、24日に再度チャレンジ。
今度はなんとか辿り着くことができました。

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(37 55 4.6N 139 28 41.8E 標高502.7m)

もう一度行ってみようという気になったのは、前日に王子神社の由緒を詳しく書いているサイトを見つけ(リンクを貼っておきます)、そこに書かれている内容に心を揺り動かされたからです。
それまで、単なる山ノ神を祀ったものではないかと考えていたのですが、事実は全く異なりました。
なんと、源義朝の護持仏を勧請した神社だったのです。
ニノックススキー場パラダイスコースの南の谷間を三光川が流れていますが、河岸段丘を少し上がった標高約530m地点に王子権現こと王子神社を開基したのは、義朝の家来だった渋谷金王丸(コンノウマル)でした。

(1)渋谷金王丸の生涯
現在の東京都渋谷区の丘陵地帯に館を構えたのが渋谷重家(河崎基家)、つまり渋谷金王丸の父した。
ちなみに、渋谷3-5-12にある金王八幡宮は、渋谷重家によって創建されたものです。
渋谷氏の先祖を辿っていくと、垣武天皇の子である葛原親王の第三王子高見王の子・高望王に行き着きます。
高望王は桓武平氏の祖としても有名。
のちに源氏の頭領・義朝の家来となった金王丸ですが、血筋的には平氏の血が流れていました。面白いですね。
彼は豪勇夢双の士として知られ、源義朝の忠臣として保元の乱で活躍。
しかし、続く平治の乱では源氏は平家に破れ、義朝は東国へ落ち延びようとします。
その途中で立ち寄った尾張国の長田荘司忠致の館に滞在しているとき、平家方に寝返った忠致(タダムネ)の策略で義朝は入浴中に襲われ、非業の死を遂げます。
ここで、金王丸は仇討ちを果たしたという説もありますが、それはフィクションのようです。
忠致はその後、壱岐守に任ぜられたという明確な史実があるので、短期間のうちに金王丸が暗殺したというのは矛盾するからです。
駿河国(静岡県中部)にも長田父子がいて、彼らは頼朝に敵対したがために梟首(斬首した人の首を木にかけてさらすこと)されました。
それが混同されて、一部で伝わっているものと思われます。
また、仇討ちを果たしたのちに渋谷の館へ急いで帰り、出家して土佐坊昌俊と名乗ったいう説もあります。
これについては幾つかのバリエーションがあるのですが、私の調べた限りにおいては別人説の方に分があると思います。
土佐坊昌俊は大和国興福寺金剛堂の堂衆だったのであり、また新発田市の川東郷土資料にも、当時の土佐坊昌俊は奈良の真言僧であり、金王丸とは別人であると述べられています。
主君の義朝を失ってから、金王丸は京都へ入り、出家して牛若丸(のちの源義経)に仕えたという説もあります(滋賀県大津市和邇に伝わる金王丸由来書による)。
ひとつだけ確実なのは、京都にいる義朝の側室・常磐御前の元を訪れ(しばらく滞在したようです)、義朝の最期を報告したということ。
先の川東郷土資料によると、常磐御前は金王丸に、義朝の関東武士に宛てた手紙と、義朝の護持仏を託したとのことです。
そして金王丸は裏日本経由で、各地を転々としながら北上。
最終的に義朝の異母弟の護念上人を頼って、現在の新発田市菅谷へ辿り着きます。
護念上人の略歴ですが、幼くして出家し、比叡山延暦寺のある院の座主を勤めます。
平治の乱で源氏が敗れてから身の危険を感じるようになり、諸国を流浪ののちある天啓を受け、加治荘菅谷に留まることにしました。
近くに庵を建て、笈に背負って京都から持ってきたご本尊の頭部を安置。
これが菅谷寺(現在の菅谷不動尊)の開基となったのです。
金王丸もその地が気に入ったのか、そこを終の棲家にしようと決めたのでしょう。
菅谷からは二王子岳がよく見えます。
その一角の大平山の山中に(ニノックススキー場手前の道路脇に、大平山国有林と書かれた標識が立っています)、京都から大切に持ってきた義朝の形見である護持仏を安置したのでした。

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(写真は、下石川舞台付近から見た二王子岳。青の矢印の小ピークが大平山と思われるが、要調査。王子権現が祀られている場所は、丁度矢印の延長線上の谷間です。左側にニノックススキー場のコースが顔を覗かせています。)

その際、義朝の父・義家が信仰した王子権現(東京都北区王子本町にある王子神社のこと)の分霊を勧請し、名称を王子権現としたのでしょう。
これが王子権現(王子神社)の由来です。
隣の二王子神社とは成り立ちが全く異なり、名前は似ていますが、両者に関連はありません。
彼はその後、家来の勧めで妻帯し、子をもうけます。
菅谷から二王子山麓にかけての上下石川、上下楠川、上下三光集落には渋谷性が多いのですが、それらの人たちは金王丸の子孫だと当地では言い伝えられています。
下石川に土着した金王丸は能舞台を近くに作り、家来や村人と共に能を楽しみながら余生を過ごしたようです。
菅谷小学校の南500mに舞台という名称の集落があるのですが(下石川地区の一角)、まさにこの集落の名称の起源がここにあります。

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(写真は舞台付近。左端の三角形に盛り上がった林の中に諏訪神社が鎮座する。)

ネットで閲覧できる地図では、国土地理院の地形図に舞台という地名が載っています。
また、坂井川にかかる橋にも舞台大橋があり、史実を今に伝えています。

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(下を流れるのは石川川。)

金王丸の没年は定かではありませんが、国道290号線から滝大橋を渡って間もなくの共同墓地の一角に、金王丸の墓と伝えられている墓があります。
これについは、章を改めて述べることにします。

2016年5月18日 (水)

二王子神社旧参道詳説

5月12日にも類似の記事をアップしましたが、なんだんかんだとこの1ヶ月で旧参道を今日(18日)を含めて4回訪れました。
ようやく点と線がつながり全容が見えてきましたので、改めて現状をまとめてみました。

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国土地理院発行の1/2.5万地形図記載の点線は、一部踏み跡が消えているものもあり、逆にしっかりした踏み跡があるのに載っていないものもあります。
そこで、今日現在の現状をまとめてみたのがこの図です。
地図の真ん中あたりに”この区間泥道”と書きましたが、先月からこの付近で地元のさくら森林組合さんが伐採作業を行っています(次の写真参照)。

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特に林道から丸木橋へ行く途中の道が深い泥道となっているので、歩行は難しいです。
堰堤まで車通行可、と書きましたが、この林道に2台の重機が入っているので、当面マイカーでの進入はやめたほうが無難だと思います。
伐採作業が終われば、堰堤前の路肩に車を停めることができます。
さて、二王子山神社から旧参道を歩いてみましょう。

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急な石段を、ロープにつかまりながら下ります。
この石段、急な上に下側へ傾いており、表面は苔むしています。
そのためビブラムソールの登山靴でも滑りやすいです。
二王子神社から太鼓橋までの往復であれば、スパイク付きの長靴がお勧めです。
石段を下り終え、最初に現れる案内板の主がこの杉の木。
包岩楓大杉といい、その名の通り、岩を抱え込むように根を張っています。
太鼓橋が近づくと、左に登龍杉、右に祓い戸跡(祓殿跡)が現れます。

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登龍杉の裏側に回り込むと、根元に大きな穴が空いています。
ストロボを焚いて空洞を撮ってみたのですが、かなり大きな穴でした。
とても神聖な空間だと感じました。

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太鼓橋は昭和47年に付け替えられたもの。
現在の橋はコンクリート製です。
さて、太鼓橋を渡って数分歩くと、次の写真の分かれ道が出てきます。

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左へ進めば、程なく車道へ出ます。
右へ進むと旧参道。
右へ進んだ場合、勾配はここからきつくなり、踏み跡もやや薄れかけます。
特にテープとかもないのですが、進路はひたすら道なりにまっすぐ進んで下さい。
途中1ヶ所だけ、杉の倒木が道に覆い被さっている箇所がありますが、そこで右下の斜面へ逃げず、枝を押しのけまっすぐ進みます。

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急坂を下り終えると、この水路へ出ます。
水路をまたぎ、右斜め前方へ踏み跡を辿ります。
すぐ2~3m先で踏み跡は二手に分かれるのですが、左へ進みます。
急な崖を4~5m下れば、ダートの林道へ出ます。
ところで、この水路にはよく見ると、右岸(上流から下流を見て右側)にかすかな踏み跡が付いています。

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(左側に踏み跡があるのがわかるでしょうか?)

ここを辿っていくと約100mで落差8mほどの大きな滝に出ます。

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踏み跡もここまで。
滝は3段くらいに分かれており、なかなかの迫力です。
二王子神社横の妹背滝は、現地の案内板にも書いてありますが、車道を作った際、滝の岩盤を一部破壊したので、落差は昔より少なくなっています。
なので、この滝が姫田川では最も落差があるのではないでしょうか。

2016年4月27日 (水)

陣馬山再発見

本間新田から二王子温泉病院へ抜けていく道路の途中に、陣馬山(56.1m)があります。
そこの近くの農道で、ここ数年よく星景写真を撮っていました。
曲がり角の所に小さな神社があるのですが、おととい通った際、道路をはさんで反対側の林の林の中にも神社らしきものが立っているのを発見。
あとで国土地理院の地形図を見たら、確かに神社マークは二つありました。
なんで今まで気づかなかったのだろう。

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境内は思いの外広く、様々な石塔や祠が建っています。

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境内を取り囲むように、そう、まるでストーンサークルのように石が置かれています。
なんとも不思議な場所です。

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石のひとつひとつにはこのように神サマの名前が刻まれています。決して墓ではありません。

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ご神体と思わしきは、枯れた大木の切り株。
それを取り囲むように、ここにも神々の石碑が・・・
ネットで情報を漁っても全く出てこないので、新発田の図書館へ行ってみました。
ところが、駅前へ移転のため、7月まで完全閉館だとか。
仕方なく県立図書館やほんぽーと、豊栄の図書館へ行きましたが、陣馬山の神社については記載が一切ありませんでした。

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一応、神社名はこの石碑に書かれています。
しかし、ますます怪しい。好奇心を掻き立てられます。
まあ、八百万の神々を祀った場所と言えるでしょう。
いつもの星景ポイントをこのあと下見したのですが、先日判明したように、陣馬山から田貝までの山麓の樹木が伐採され、はげ山状態になっていました。

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山が泣いています。ちょっと残念です。
しかし、これをメリットとは絶対に言いたくないのですが、あくまで事実として述べれば、農道のどこからも二王子岳が見渡せるようになりました。

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これは入ってすぐの農道からの景色。
左端に二王子温泉病院が見えています。

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最後にいつものポイントへ立ち寄ってみたら・・・春に来るのは初めてだったのですが、ご覧のように山桜に彩られており、絶景が楽しめました。
これなら桜星景もいけますね。
自然林が残っているのはここだけでした。
この林が、いつまでも残っているよう祈るばかりです。

2016年4月10日 (日)

加治氏ゆかりの地

土曜にアップした記事の続きです。
坂井川の河原でコゴミを取ったあと農道へ戻ってくると、視界に存在感のある桜の木が目に入りました。
早速行ってみると、思いがけぬ文章が案内板に刻まれていました。

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源平の合戦で勇名を馳せた佐々木盛綱は、源頼朝から越後守護・ 加治荘地頭に任命され、今の新発田市一帯を収めます。
のちに新発田城の城主となる新発田氏は、盛綱を祖とする加治氏の傍流。
加治氏は19代の景綱を最後にお家断絶の憂き目に遭いますが、その景綱が晩年居を構えた地がここなのでした。
萬休斉は、”万事休す”から来ているものと思われ、景綱の晩年の心境が読み取れます。

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南に二王子山の勇姿を抱き、素晴らしいロケーション。
この場所を選んだ景綱に、なんか好感を抱いてしまいました。

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万休斉を名乗った佐々木景綱の墓がここにあり、位牌は香伝寺に安置されています。
香伝寺はニノックススキー場へ行く途中の集落にあるので、すぐわかりました。

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境内は広く、庭園もなかなか見応えがあります。
さて、この地に赴任してきた佐々木盛綱が居城を構えたのが、櫛形山脈の南端に位置する要害山(166m)です。
実はこの日(9日)、最後に訪れたのが要害山の登山口に立つ藤戸神社でした。
後述するような史実を、一切この時点では知らなかったのです。
30年くらい昔、母とワラビ取りに登ったことがあるくらいで、自宅から割と近い(車で10分)にも関わらず、要害山周辺はあまり来たことがありませんでした。

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ここが藤戸神社の入り口(兼・登山口)。
神社の名前の由来は、岡山県の藤戸の瀬戸における平家との戦いで、近江源氏の雄・佐々木盛綱が殊勲をあげたことを称えるために付けられたそうです。
尚、祭神は近江源氏の遠祖にあたる宇多天皇。
この記事を書くにあたり、歴史書をひもといているのですが、様々な偶然の一致に驚くことしきりです。
さて、背の高い杉の古木が2本鳥居の左右に林立するこの佇まい、近年レイライン上に位置することで有名になった岐阜県の日輪神社にそっくりです。
確かに、鳥居をくぐると空気感がドラスティックに変わります。
既に薄暗くなっていたので、この日はここで引き返しました。

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前方に見えている鳥居まで、高低差にして40mくらいありそう。
石段も崩れかかっており、サンダル履きは厳禁です。

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翌朝(つまり今日)、改めて神社まで登ってみました。
最初視界に飛び込んでくる鳥居の奥にもうひとつ鳥居があり、思ったより遠かった・・・
帰りは入り口の右手に見えていた林道を降りてきたのですが、点在する山桜が目を楽しませてくれました。

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左手奥に見える赤い鳥居が神社の入り口。
山裾には小川(今泉川)が流れており、清らかな水の流れに目を奪われました。
周辺の田んぼの用水路は完全にU字溝化されていますが、この川だけは数百メートルに及び、自然のままの護岸です。
これはひょっとすると、アレも多く生息しているかもしれません。

2016年3月22日 (火)

里山の神社巡り

そろそろ里山から雪が消え、歩けるようになってきました。
まだ薮は見通しがいいので、地形を把握するには早春が一番です。
3月20日、新たなホタルの生息地の探索がてら、城山~猿ヶ馬場山にかけての山麓と、真木山周辺を歩いてきました。
この辺は神明宮と名の付く神社が多いです。
神明宮(神明神社や神明社も同じ)は、すべて伊勢信仰に由来します。
近世に入って、新田開発の際に農業の神である豊受大神や天照大神を祀る神明宮が次々と建てられました。

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これは新発田市大崎にある神明宮。
車道からは見えず、地形的に特異な場所に建っています。
背後を小川のような用水路が流れており、落ち込みがあるため、大きな瀬音が聞こえてきます。
安易にパワースポットという言葉は使いたくないけど、この神社はディープでした。

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こちらは、大崎の隣の集落に建つ八幡神社。
八幡神社(八幡宮)の総本社は、大分県の宇佐神宮です。
八幡神とはなんぞや。
これについては様々な説がありますが、次のサイトで紹介されていた、八幡神=ヤハウェ説は非常に説得力があると感じました。
さて、八幡集落の名の由来はこの神社から来ています。
境内は非常に広く、写真でおわかりのように遊具なども置かれています。
右手に二王子岳を望み、遮るものはなにもありません。
胸のすく風景が展開します。
この神社の佇まいには癒やされました。

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この辺りの水田は、ほとんどU字溝が使われていません。
ひょっとしたら平野のど真ん中にホタルが生息している可能性もあります。
五頭山でも二王子山でも、山裾へ行けば結構ホタルは見られるのですが、平野部でホタルが舞うのを見たことはありません。
そして、今年は標高の低い平野部でホタルの生息地を見つけることがぼくの目標。
ここは有力候補地ですね。

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これは真木山山麓の戸板沢集落に建つ神明宮。
真木山はゴルフ場が面積の半分を占めているのですが、このあたりの神社はちょっと荒れていますね。

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戸板沢からフォレストゴルフ場北麓を横断する山道へ入ります。
山を下り終えると大沢集落、そこから月岡温泉側へ約500m走ると万代の神明宮が現れます。
かつては信仰を集めた、威厳のある神社だったのでしょう。
わずかにその名残を留めているような気がしました。

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最後に立ち寄ったのがここ。
福島潟から中央高校へ抜ける道路沿いに立つ神明宮です。
佐々木から福島潟周辺の農道をざっと一巡りしたけど、心の琴線に触れるような風景には出会うことができませんでした。

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2017年3月
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