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カテゴリー「旅行・地域」の34件の記事

2014年10月11日 (土)

新発田旧市街探訪 (35) 番外編~石泉荘再び~

昨日は特別編、今日は番外編と、いったん最終回と題しておきながら、なかなか終わりません(汗)。
さて、9月21日に石泉荘を取り上げていますが、そのときは事前に何の知識もありませんでした。旭町がそこにあったことすら知らなかった。
昨日の記事にも書きましたが、最近、新発田の廓の歴史について詳しく書かれた小冊子を読む機会を得ました。
10日の記事に旭町の遊郭配置図を載せましたが、そこにちゃんと花菱の名前が載っています。その隣は若月楼。現在石崎家が住んでいる家は若月楼のあった場所です。
パズルのピースが合ってくると、俄然興味が増してきます。
もう一度じっくり見学したくなり、10日に石泉荘を再訪しました。

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パンフレットを読んで初めて知ったのですが、門と塀は”花菱”時代のものだそうです。
この石畳の場所には昭和43年まで80坪ほどの土蔵造りの住宅があったそうですが、老朽化が進んだため取り壊したとか。
しかし、その材料で母屋と離れ座敷をつなぐ渡り廊下を作ったそうです。

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新発田川に面した離れ座敷の上の間(11帖)。かつての花菱の中核。
清水園と共催で、ここで市民茶会が開催されることもあります。

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昭和初期に新築された、玄関に続く6帖の和室。

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新発田川に面した離れ座敷(右)と化粧の間(左)。
縁側も当時のままだそうです。

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川戸がここにもありました。
今でもこの辺の新発田川は水質もよく、異臭も全くありません。
かつては筏下りの光景も見られたとか。
いつか新発田川をカヌーで下ってみたいですね。

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離れ座敷と並び、登録有形文化財の指定を受けている茶室。
明治28年、市内にあった藩医の茶室兼隠居所を移築したものです。
ここだけ、内部の見学はできません。

2014年10月10日 (金)

新発田旧市街探訪 (34) 特別編~花街の歴史~

1週間ほど前に、大変興味深い資料に巡り会いました。
「新発田郷土誌 第十号」(新発田市史編纂委員会)です。
この本は毎号様々な角度から新発田の歴史や風俗に関する話題を取り上げており、興味が尽きません。
中でも今回、第十号の”新発田の廓を語る”(松田時次著)は面白かったです。
幾つか確かめておきたい点が出てきたので、改めて現地へ足を運び、再取材を重ねました。
10月1日の記事と一部重なりますが、改めて取り上げてみたいと思います。
尚、「新発田郷土誌 第十号」は新発田図書館の他には、新潟市のほんぽ~とにバックナンバーが置いてあります。

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松田氏の一文に旭町と三宜町の絵地図が載っていたので、それをフリーハンドで書き写してみました。
それと、三宜町(現御幸町2丁目)に関しては地形が大きく変わっているため、現在の地図と大正時代に作成された地図を併せて貼り付け、比較しやすいよう、独自の資料を作成してみました。

(1)旭町の歴史
新発田の廓の歴史を語る前に、いつ頃から私娼が出現し始めたのかを検証してみます。
松田氏によると、十返舎一九は「道中金の草履」で新発田の”かぼちゃ”について触れているそうです。
かぼちゃとは、私娼を指す隠語。江戸時代末期から明治初期にかけて、小人町(現・大手町3丁目)や徒士町(現・大手町2丁目)に出没していたと言われています。
風紀の悪化を理由に何度も官憲は取り締まりを試みましたが、いたちごっこ。
明治8年には、歩兵第三連隊第二大隊が東京から新発田へ移駐してきました。
その後、歩兵代十六連隊の設置の話も出てきたため(明治17年6月設置)、当局は大局的な見地から、公娼が必要であるとの業者の主張を受け入れ、旭町(現・諏訪町3丁目)が朱印地として選ばれたのです。
こうして明治13年、新発田藩の武芸や馬術の訓練場だった旭町に、17軒の妓楼が集まり、廓の営業が始まりました。
ところが明治37年、新高楼から出火、隣接する上鉄砲町の民家50軒余を巻き込み、約70軒が焼け出されてしまいます。
もともと、廓が住宅街の近くにあるのは風紀上いかがなものかという声も少なからずあり、この火災をきっかけに、花街は思い切り郊外の伊勢堂地内(現・御幸町2丁目)への移転を余儀なくされたのでした。
正確に言うと、焼け残った1軒と、新たに同じ場所に新築した2軒の計3軒は引き続き旭町で営業を続けたのですが、新しい廓街に対抗できず、ほどなく三宜町へ3軒とも移転・合流したのでした。
その3軒の中の1軒が花菱。
花菱の場合は焼け跡に、市内にあった武家屋敷の一部を移築、そこで営業を続けていたのです。
まもなく花菱は三宜町へ移転しますが、その建物は現存しています。
それが石泉荘の離れ座敷(登録有形文化財)。
もともとの経営者が旭町へ移って以降、新津で製油を業としていた石崎家の所有となり、別邸として使われるようになったのです。
近年、この離れ座敷と庭園は一般公開されるようになり、ぼくも今年初めて見に行ってきたばかり。
花菱の歴史を思い起こしながら座敷に一人佇んでいると、当時のワンシーンがフラッシュバックしてくるような感覚に陥りました。
ぼくのこのブログでは、9月21日の記事で写真を掲載しているので、興味のある方はご覧になって下さい。

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かつての旭町メインストリートです。
1枚目の資料でいうと、E地点から写した写真になります。
右側の石泉荘さんの駐車場は、かつての”えび屋”跡。
この辺は明治時代の区画がそのまま残っており、絵地図と現在の地図とがきれいに整合します。
左側には明治37年当時5軒の妓楼がありましたが、現在は6軒の住宅が建っています。

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1枚目の資料でいうと、F地点から写真です。
本当に狭い通りです。
尚、新発田郷土誌第十号の”新発田の廓を語る”の記事に載っている旭町の絵地図は南が上になっています。
ぼくが作成した資料では、地図はすべて北を上にして描き直してあります。

(2)三宜町の歴史
松田氏の”新発田の廓を語る”の記事は、妓楼の経営者の子孫の方から直接お話しを聞いているので、非常に詳しく正確です。
1枚目の資料に掲げた”三宜町朱印全図”などは大変貴重なもの。
さて、ここでも困った問題が発生しました。
池の形や周囲の道路の形状が、やはり1枚目の資料に収録した大正6年に作られた地図ときれいに一致しないのです。
この界隈は戦後急速に開発が進み、道幅の広いバイパス道路ができたことで池は跡形もなく消失しました。
バイパス道路のできる以前、大正~昭和30年代初期の間に作られた市街図を探したのですが、見つけることができませんでした。
もっともあったとて、住宅地図が出現したのは割と近年のことですから、縮尺の大きさや正確さは期待できませんが。
10月1日の記事でも書きましたが、「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」に載っている写真がどこから写されたかを突き止めたいという思いがありました。
でも、昔の道路や目標物がほとんど残っていないため、現在の住宅地図上で正確になぞることができないのです。大体の場所は判明しているのですが。

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「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」p66、昭和30年代に撮られたとされる写真をよく見たら、左隅の電信柱の先に左へ折れる小道がわずかに見えていることに気がつきました。
10月1日の記事、2枚目の写真と同じ場所には違いないのですが、あの本の写真同様、その小道への入り口がわかるよう写し直したのが上の写真です(A地点)。
ぼくの使用レンズは35mm換算40mmですから、あの本の写真は50mmの標準レンズで撮られたものと推察できます。

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とにかく五叉路の交差点付近は新旧の道路が交錯しまくっています。
これはC地点からの撮影。思わぬ所に小路が隠されています。

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こちらはD地点から五叉路の交差点の半分を切り取ったもの。
美容室の左側に車の通行不可能な細い路地が見えます。
昭和初期に作られた道路ではないかと推測するのですが、どうでしょう。
この美容室の右に沿って延び、神明神社へと抜ける道路は明治時代からあったもの。
1枚目の自作資料によると、緑のラインの道路にあたると思われます。

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こちらはB地点からの写真。
ここからスタートし、ふかみ美容室の前を通って長徳寺方面へ抜ける小道は、やはり大正時代に作成された地図に記載の古い道(緑のライン)だと思います。
結局、三宜町の名残を示すもので現存している最もわかりやすいものは盆栽仕立ての松の大木でしょう。
1枚めの資料中央の写真をご覧下さい。
10月1日の記事にも書きましたが、この写真に写っている最も背の高い松と同じ木と思われる木が現地に残っています。

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この中央の松の木が生き字引なのです。
池は二つあったようなので、「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」66pの大きな写真(イコール1枚目の資料中央の写真)に写っている池がどちらの池なのかにより、妓楼街の配置は若干異なってきます。
おそらくあの写真は、池と池の中間の草地、大きい方の池の真後ろからメインストリートである西方向へカメラを向けていると思うのですが。

と、場所の特定のみに意識が向き、三宜町の歴史については触れていませんでした。
新発田郷土誌第十号の松田氏の記事の抜粋になりますが、56年に渡る三宜町での廓の歴史について、主な妓楼の移り変わりについて述べられています。

*若月楼 途中で経営者は北海道に渡り、相生楼が引き継ぐ。
*花菱楼 掛倉に移り、芸妓置屋に転身。新盛楼が引き継ぐ。
*岩名風呂屋が招月楼に転身。
*新潟古町の東京亭が神風楼を開く。
*佐渡から丸川清三郎という周旋屋がやってきて金鶏楼を始める。・・・etc

昭和14年頃から戦争の足音が高くなってくると、大半の土地は進出してきた軍需工場に身売りします。
終戦を迎え、残った業者(招月、常磐、三高、初音、新盛、相生)は引き続き営業を続けましたが、経営は苦しかったようです。
その後、招月は招月旅館に、相生は末広旅館に、初音は掛倉に移転し、久和原旅館に、新盛楼は関川村の雲母温泉で万代館を開業、三高楼は建物を改造してアパート経営に転身と、昭和30年代に各業者は各地に散っていったのでした。
ところで、各妓楼の前には、松やつつじが植栽されていました。
人の心を浮き立たせる演出の意図がありました。
盆栽仕立ての松が妓楼のシンボルと言われるのはそのためです。
あと、松田氏の記事を読んで印象に残ったのは、廓芸者の存在です。
娼妓のようにからだは売らず、三味線や鼓、横笛、太鼓や踊りなど、5~6才の頃から仕込まれた芸一本で身を立てていました。
この習慣はよその花街でも見られます。
芸のレベルは非常に高かったそうです。
ぼくは弁天池(瓢箪池)の場所を突き止めようとしてきましたが、そこには次のような背景があります。
もう一度、松田氏の文章を引用します。
「毎年8月12~13日のお盆の頃ともなれば、日没時からドンドン、ドドン、ドンドドンと遊郭踊りに合わせる独特の太鼓の音が遠く田舎の方まで響くと、近郷の若者達の心はうきうきしてくるのである。そして、やがて夜もふけかかる頃、元気のよいねじり鉢巻、浴衣着流しの者から、腰に手拭い、頭に鳥打帽の者など、町はずれの三宜町にぞくぞくと集まってくる。
廓の中ではどの座敷の門前も紅灯を競って灯し、中央の瓢箪池の周囲は角灯やぼんぼりが松の緑を水面に映して若者達の気持ちを一層かりたてるのである。
いつも禁足令の籠の鳥たちも入念に化粧して、艶を競ってなじみの客や野次馬客と池の周りを賑やかに、夜の更けるのも忘れて踊りに踊る。こうして20日頃までの約1週間、廓の夜は千客万来の賑やかさで明け暮れるのである。」
新発田まつりのけんか台輪や民謡流しもいいですが、このように幽玄な世界を一目見てみたいと夢想しながらこの章を終えます。

2014年10月 6日 (月)

新発田旧市街探訪 (33) 中央町1丁目再び(最終回)

8月31日から始めた新発田の街角散策シリーズも今回で終了です。
尚、過去記事をご覧になりたい方は、ブログ右欄にカテゴリーという項目がありますので、そこで新発田市街という言葉を見つけ、それをクリックして下さい。
すると、32回の記事がまとめて表示されます。
尚、無料で見ることのできるネット地図では、マピオンが最も詳しく正確です。
最大1/1500にまで拡大することができ、固有名詞も住宅地図並みに多く記載されています。

ラストは、もう一度ぼくが育った家周辺の見慣れた風景を取り上げて終わりにします。

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家の前の狭い小路を裁判所側へ抜けると、左手にこの風景がありました。
その眺めは今も変わっていません。
この松林は、かつての武家屋敷の面影を留めるもの。
このアングルでこの風景を見るたびに、心がしゃきっとします。

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今は失われた小路の入り口。
約15m先で新しくできた道路と繋がっています。
左手は裁判所。
この周辺の風景は、ここ30年の間に大きく変貌してしまいました。

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裁判所の庭にこの松があります。
今の裁判所の建物に建て替えられる前までは、ぼくを含め、子供達が毎日のようにこの松の木の周りで遊んでいました。
それだけに、この松は寂しそう。
布団掛けの松を見るために庭に入るのはOKなので、ぜひみなさんもこの松に会いに行ってやってください。

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最後に、2002年に撤去された我が家の旧宅。
最初に建築されたのは明治40年代でした。
当初は2軒が隣り合っていたのですが、昭和の初めにくっつけ合わせ、1軒の家に改築したらしいです。
狭い庭には杏(あんず)や柿、イチジクの木があったのですが、平成に入る前に全て伐採してしまいました。
イチジクや杏は毎年好きなだけ食べていたので、今でもお金を払ってイチジクを買う気にはなれません。大好物ではあるのだけど。
でも、今日だけはシリーズを完遂した記念に、ウオロクでイチジクを買ってきて食べるとしますか。

2014年10月 5日 (日)

新発田旧市街探訪 (32) 西園町1~大手町2丁目周辺

8月31日から始めた町歩きシリーズも、いよいよ大詰め。
旧市街と言えるような地域はくまなく歩いたつもりだったんですが、今日は少し漏れていた地域の写真をアップします。

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西新発田高校の松です。
今は男女共学ですが、かつては女子校でした。
学園祭で中へ入ったことがありますが、西校の敷地内は、ぼくみたいな清純な男子学生からみたら禁断の砦以外のなにものでもありませんでした。
正門をくぐったところにこの松はあります。
この松こそ、西高校の真の校長先生です。

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西高校前からマルフジ会館、松屋米店にかけて、新発田川の支流が流れています。
最終的には御幸町1丁目、美容室ともえさんのあたりで新発田川に合流します。
ひたすら川沿いに歩いてみるのも一興です。

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松の根本付近の塀に注目。
とても窮屈そうですが、松は全く意に介していないようです。

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旧神田商店。

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さくら堂の近くにありますので、探してみて下さい。
七所神社。

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妖精が出てきそうな小道を見つけました。
探すと、市内にはまだまだこんな小道があります。

2014年10月 4日 (土)

新発田旧市街探訪 (31) 本町2丁目周辺

JR新発田駅前から駅前通りをまっすぐ進むと、本町の交差点に出ます。
そこを右折して100mも進むと、右手に広い駐車場が現れます。
そこに、道路に面してひっそりと幾つかの石碑が佇んでいます。
大山祇(おおやまづみ)神社跡と書かれた石碑の右隣には、泉町を示す石碑が立っています。

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さて、下越地方には”山の神”信仰が密かに根付いています。
ぼくの両親は会津出身だったのでなおのこと、西会津町にある大山祇神社に対する愛着を生前持っていました。
ここにあったとされる大山祇神社は、もちろん西会津町のそれと同一系統の神社です。
それでは大山祇神社の総本社はどこにあるかというと、瀬戸内海に浮かぶ島、大三島にあります。
山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から崇拝を集めてきました。
源氏・平家をはじめ、多くの武将は、戦での武運長久を祈り、武具甲冑を奉納してきました。
そのため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているのです。
ぼくも昔一度訪れたことがありますが、それは壮観な眺めでした。確か、源義経奉納の鎧もあったと記憶しています。
仏教が大陸から入ってくる以前から、この種の信仰~自然神に対する~は日本人の精神構造の中に組み込まれていたのでしょう。

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道路の両側にはまばらに商店が立っています。
シャッターを閉じている店も多いです。

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裏通りに残る蔵。(写真は少し加工しています。)

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これらの長屋は”今”の風景です。
30年前に写した写真ではありません。

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寺町との境の裏通りの一風景。

2014年10月 3日 (金)

新発田旧市街探訪 (30) 本町1丁目周辺

JR新発田駅前からカルチャーセンター側へ向かって歩いていくと、トリム薬局の隣に神社が見えてきます。

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地図を見ると、天照皇大神と記載されています。
詳しい情報はネットで調べても出てこないのですが、次の写真に見られるように修験道の聖地である湯殿山の石碑が境内に見られることから、広く八百万の神々を祀ったお社であると思われます。

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神社の裏手には、このように舗装されていない道も未だに存在します。

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その小道を抜けると、ワゴードライ本町1丁目営業所のお店へ出ます(上の写真)。
須貝茶店の看板がありますが、もう営業はしていないようです。

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その通りを西へ歩いていくと、伊藤酒店の前へ出ます。
小学生の頃(もう40年以上前です)、たまにここへくじを引きに来たことがあります。
その頃は確か駄菓子屋さんで、1回30円だったか50円だったか忘れたけど、くじが引けました。当時の駄菓子屋さんには、そのようにくじを引かせてくれるところが多かったのです。
もちろんほとんどがはずれなのですが、はずれでも甘納豆がもらえました。
それが結構美味しかったもので、だめもとで引きにきたという次第。
今回この辺を数十年ぶりに歩いてみて、忘れかけていた記憶が鮮やかに蘇ってきました。

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左に新発田病院を見ながらさらに150mほど進むと三叉路に出ます。
そこから写したのがこの写真。
病院の全景を撮るには、お勧めのアングルです。

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角には公園があり、小さな祠が建っています。
ここは大山祇(おおやまづみ)神社。社殿は地区の公会堂を利用しています。
明和二年(1767)の勧請。
小峰神社を合祀します。

2014年10月 2日 (木)

新発田旧市街探訪 (29) 御幸町2丁目(後編)

前回は旧三宜町(みよしちょう)にスポットを当てた記事を書きましたが、今日はそのテーマを離れ、裏通りの普通のスナップをお届けします。

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3丁目と2丁目の境にある五叉路の交差点、地図をよく見ると正確には6本の道が交差しています。それでは交通に支障をきたすので、うち最も細い1本が車の進入禁止になっています(1枚目の写真)。
そこから枝分かれしている小道も、このように柵があったりします。
これほど複雑に道が色々な角度で交わっているエリアは珍しいです。

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1枚目の写真の小道を歩いて行きましょう。
右にワゴードライの工場を見送ると、まもなく上の写真の小道となります(反対方向から写しています)。
これはちょうど新野商店さんの裏側にあたる場所ですが、そこに大きな木が立っています。これも妓楼の面影を偲ばせる一風景でしょうか。

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先の小道は結構長く続いています。
500~600mは歩くでしょうか?道幅はずっと細いままで、お勧めの散策コースです。
最終的にはここに出ます。
大ものや釣具店さん。斎藤釣具店、倉島釣具店に次ぎ、古くからやっているお店です。
中学~高校と釣りキチだったぼくは、ここでも何度か餌を買ったことがあります。

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大きな通りをはさみ、今紹介してきた小道と対になっている小道がこれ。
やはり同じくらいの長さがあり、部分的には軽自動車がやっと通行できるかどうかというほど道幅が狭くなっています。
昭和の初期に形成されたものと推測されます。
終点は御幸公園です。

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途中、このように古い街並みが残っています。

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終点の御幸公園。
よく手入れされた芝生広場が気持ちいいです。
この公園からは住吉町2丁目になります。

2014年10月 1日 (水)

新発田旧市街探訪 (28) 御幸町2丁目(前編)~旧三宜町界隈~

御幸町2丁目は三宜町(みよしちょう)と呼ばれていました。
一帯は妓楼(ぎろう)が置かれていた場所で、月に宜し、雪に宜し、女は殊に宜し、ということでそのように名付けられたそうです。
その前にお断りしておきますが、ぼくは大学時代、民俗学を専攻していました。
特に女性史や風俗史を研究してまいりました。
ですから、決して興味本位の記事でないことをご理解頂きたいと思います。

さて、手元に1冊の大型本があります。
「新発田今昔写真帖」20世紀のふるさと100景~郷土出版社刊(2002年発行)
10年くらい前に買った本なのですが、この66ページに三宜町の写真が載っています。
(現在でもこの本は購入可能。また、新潟県立図書館に置いてあります。)
そこには2階建ての立派な建物が軒を連ねている様が写っているのですが、その豪華さに一目で魅せられてしまいました。
善し悪しは別にして、そこにはひとつの確固とした”文化”が写っていたのです。
戦前に撮られた第四銀行新発田支店の洋館風の建物にも言えることですが、それらの優れた建築物を見るたびに、文明ってなんだろうと考えさせられます。
それはさておき、他にも妓楼の写真を探したのですが、他の本に1枚載っていただけでした。

さて、「新発田今昔写真帖」66pの左上部の写真の説明に、誤解を与えるような表現があるので指摘しておきたいと思います。
「・・・その頃の名残に今なお盆栽仕立ての松が、華やかな時の思い出とともに残っている。」
とありますが、ここは御幸町3丁目。2丁目ではありません。
距離的にも400mくらい離れています。
これと同じ場所の現在の写真です。

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石田商店の看板が目印。その向かいにくだんの松があります。
しかしながら、ここは長徳寺の裏側。すぐ10m背後に長徳寺があります。
長徳寺は1585年に創建された古刹。
そのすぐ後ろに妓楼が建設されることはありえません。
確かにこの松は当時からあったと思われますが、妓楼街まではかなり離れていますから、この松の周辺に妓楼があったという印象を与える文章は不適切であると思います。
新発田の妓楼の歴史ですが、最初に形成されたのは明治13年(1880)のこと。
場所は旭町。旭町は、石泉荘の近くになります。
そこが明治37年(1904)、火事によってあらかた消失してしまい、付近の民家にも被害が及んだので郊外に移されたという次第。
ちなみに、昭和9年の新発田新聞の記事によると、貸座敷(妓楼の別称)19戸、娼妓127名、取揚高12万2047円、遊興人員51,161とあります。
当時の新発田の人口を考えると、かなりの規模です。
戦争の足音が聞こえてくると商売を鞍替えする業者も出てきましたが、娼妓の数そのものは昭和33年売春止法施行直前の頃でも150名近くいたそうです。
先に挙げた写真集66pに載っている、他の2枚の写真には特徴的な松が写っていますが、何回も現地を訪れ、隅から隅まで歩いてみたら、いずれの松の木も現存していることがわかりました。

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まずは、”昭和30年代”と題された写真と同じ場所と思われるところがここ。
66pとほぼ同じアングルで切り取った、今の風景です。
新野商店のガソリンスタンドの隣です。
妓楼街はガソリンスタンドのあたりまでであったと思われます。
大正年間に作られた地図も後ほど紹介しますが、そこに旧金原医院が記載されています(現在は大通りに移転)。
その右隣にこの松があります。
道のカーブの仕方が違うと思われるかもしれませんが、戦後の開発に伴い、道路が新しくできたため当時とは景観が異なるのです。

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正面から写すとこんな感じ。立派な松です。
ちなみに、この敷地内にはあと4~5本、風格を湛えた松の老木があります。
次に66pの、昭和初期に写されたとされる、おそらくは三宜町のメインストリートと思われる一角です。
写真の説明文に弁天池という固有名詞が出てきますが、それがカギとなります。
たまたま御幸町3丁目に友人が住んでおり、その人のおばあちゃんが弁天池の場所を語ってくれました。
御幸町3丁目と2丁目の境にある、五叉路の信号のある交差点よりちょっと先にあったようです。
もう一度66pの写真を見てみましょう。左側にそこに写っている中で一番背の高い松の木があります。それと同じ松が次の写真に見られます。

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場所的におおむね一致しますから、まず間違いないでしょう。
よく見ると、66pには背の高い松の両サイドにも1本ずつ松が写っていますが、それらの松も現存していることがわかります。
道路を隔てて左側にも、往事の面影を偲ばせる松がありました(次の写真)。

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弁天池(瓢箪池)に面して生えていたのがこれらの松たちです。

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これは大正6年(1917)9月に発行された「新発田町是 附図」。
この解像度ではピクセル等倍で見ても判別できないかもしれませんが、手元にある地図をルーペで拡大して見ると、旭町、並びに三宜町がはっきりと記載されているのです。
赤ペンで印を付けておいたので、参照してください。
特に三宜町のあたりは戦後、大栄町3丁目から御幸町3丁目を結ぶ道幅の広い直線道路が作られ、この道路の周辺は一気に開発が進みました。
なので、この古地図にない道路が御幸町3丁目~2丁目にたくさんできています。
ですから、今の地図と照らしあわせても、きっちり合致しないかもしれません。
この絵地図はデフォルメもされていますし。

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三宜町のメインストリートであったと思われる場所に立って写しています。
前方と背後に、蒼々たる妓楼の建物が軒を連ねていたはず。
ただし、写真の左側半分は、新たに作られたバイパス道路のため往事とは地形が若干異なります。
往事と変わらないのは右端の細い通り。
この通りの奥に、背の高い松が顔を覗かせていますが、それを正面から写したのが次の写真。

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南はこのあたりまで、西は先にも書きましたがガソリンスタンドのあたりまで、貸座敷街が形成されていたものと推測されます(あくまで私の予測ですが)。

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最後に、「新発田今昔写真帖」66p右上と同じアングルを探して撮ってみました。
弁天池は思いの外大きかったようです。しかも、池は二つありましたし。
あの写真はもう少し左斜め後方から写しているものと思われますが、後ろには建物があるのでこれ以上下がれないのです。
また、あの写真は35mmくらいのレンズで撮られたものと推察します。
ぼくの写真は、35mm換算で27.2mmですから、レンズの焦点距離の違いによるパースペクティブの違いもありますが、おおむね同じ構図となっています。

2014年9月30日 (火)

新発田旧市街探訪 (27) 御幸町3丁目界隈

このシリーズ、当初は土地勘のある場所を中心に、あまり町域の区分けを気にせずに記事を書いてきました。
しかし、取材を進めていく中、より細部に目が行くようになり、きちんと整理しないと収拾がつかないようになっていきました。
9月中旬、新発田図書館から借りてきた「城下町新発田の旧町名」という本を読んだら、自分の知識が非常に浅いことを思い知らされ、もっと入念に取材を行うようになりました。
ですから、中盤辺りからより細かく町域を区切るようになり、それに基づいて記事を書いています。ただし、厳密には多少隣接町域と入り交じっている写真もありますが。
過去記事を読みたい方は、ブログ右のカテゴリー欄に”新発田市街”という項目がありますから、それをクリックしてもらうと新発田市街でタグづけされた記事の一覧が表示されます。

さて、御幸町はそもそも裁判所の近くの小路で育ったぼくにとっては全く未知の地域でした。
おととしから長徳寺にヨガを習いに顔を出すようになり、そのとき初めていかに御幸町が迷路のように入り組んでいるかを知った次第。
中でも、御幸町3丁目は迷路です。
ただし、3丁目の住宅地が形成されたのは比較的新しく、大正6年9月の古地図によると、一帯は野原となっています。やや離れて、今の御幸町2丁目にかけて三宣町の貸座敷街が細々と連なっていたほかは。

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四之町公会堂脇の細い道を入っていくと、正面にこのお店が見えてきます。

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時田畳店~木村洋服店界隈の通りはかなりレトロです。

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ここは長徳寺の近く。この通りから西が御幸町3丁目。
井上葬儀店さんは大栄町1丁目になります。

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御幸町2~3丁目界隈は、9月に入ってから3~4回は散策に訪れました。
冒頭にも書きましたが、この辺は今までぼくのテリトリー外でしたから。

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ふかみ美容室前の細い通りは、大正6年9月発行の”北蒲原郡新発田町全図”に既に記載があります。
一方、右手を走っている道幅の広い道路は戦後できたもの。

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御幸町ふれあいコミュニティーセンターに隣接して石仏神社が建っています。
これがそこに安置されている石仏たち。
天明年間(18世紀後半)の作。阿弥陀如来を模して彫られた石像だそうです。

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児童遊園が併設されています。
とても気持ちのよい場所で、ここ3週間の間にぼく自身4回くらい足を運びました。
いつも遊んでいる子供達の姿を目にします。

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児童遊園の斜め向かいに立つ古い住宅。

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やはり、石仏神社の近くにあるクリーニング店です。

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石仏神社脇の水路。正面が五叉路の交差点です。
左側に小道が付いています。

2014年9月28日 (日)

新発田旧市街探訪 (26) 御幸町1丁目(旧職人町界隈)

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鍛冶小路との十字路から、職人町方面を見ています。

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十字路から右手、鍛冶小路を進むと、新発田川の手前に理容みぞぐちさんが見えてきます。

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例の十字路から職人町方面へ進むと、すぐ右手にこの公園が現れます。
職人町公会堂です。神明神社の祠が隣接しています。
遊具が置かれている公園は、どこも雰囲気が明るいですね。

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昔ながらの長屋の建物も、まだ残っています。

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職人町集会所と神社。
やはりこの神社の由緒はわかりませんでしたが、延享元年(1748)の新発田町家図の同じ場所、つまり大黒小路との境に神社の鳥居が描かれています。
この鳥居は、その当時のものではないかと思います。

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境内の左隅に庚申塔がありました。
刻まれた年号を見ると、寛正十二とあります。西暦1800年です。
庚申信仰は、新発田にも江戸時代から広まっていたことがわかります。
昨日写真をアップした、元海寺さんの入り口にもありましたし、今までこのシリーズで紹介してきた神社仏閣のあちこちに庚申塔は残っています。
庚申信仰がどんなものかを説明すると長くなるので、興味がある人はウィキペディアで調べてみて下さい。

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そして、新発田川。この辺は水量も豊富で、水質も比較的いいようです。
匂いもほとんどありません。

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神明宮の秋の豊年祭での一コマ。
諏訪神社と神明宮の祭礼の時に、御神輿の先導をつとめる獅子舞が舞われました。
それは職人町の人たちの役割だったのです。

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