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2016年5月25日 (水)

王子神社と渋谷金王丸 (1)

5月13日、ニノックススキー場(新発田市)奥の山腹に鎮座しているであろう王子神社を探すべく、現地を訪れました(ブログ記事参照)。
そのときは水量豊富な三光川に行く手を阻まれ、1/2.5万地形図に記載されている神社マークの位置まで踏破することはできませんでしたが、24日に再度チャレンジ。
今度はなんとか辿り着くことができました。

Img_3670

(37 55 4.6N 139 28 41.8E 標高502.7m)

もう一度行ってみようという気になったのは、前日に王子神社の由緒を詳しく書いているサイトを見つけ(リンクを貼っておきます)、そこに書かれている内容に心を揺り動かされたからです。
それまで、単なる山ノ神を祀ったものではないかと考えていたのですが、事実は全く異なりました。
なんと、源義朝の護持仏を勧請した神社だったのです。
ニノックススキー場パラダイスコースの南の谷間を三光川が流れていますが、河岸段丘を少し上がった標高約530m地点に王子権現こと王子神社を開基したのは、義朝の家来だった渋谷金王丸(コンノウマル)でした。

(1)渋谷金王丸の生涯
現在の東京都渋谷区の丘陵地帯に館を構えたのが渋谷重家(河崎基家)、つまり渋谷金王丸の父した。
ちなみに、渋谷3-5-12にある金王八幡宮は、渋谷重家によって創建されたものです。
渋谷氏の先祖を辿っていくと、垣武天皇の子である葛原親王の第三王子高見王の子・高望王に行き着きます。
高望王は桓武平氏の祖としても有名。
のちに源氏の頭領・義朝の家来となった金王丸ですが、血筋的には平氏の血が流れていました。面白いですね。
彼は豪勇夢双の士として知られ、源義朝の忠臣として保元の乱で活躍。
しかし、続く平治の乱では源氏は平家に破れ、義朝は東国へ落ち延びようとします。
その途中で立ち寄った尾張国の長田荘司忠致の館に滞在しているとき、平家方に寝返った忠致(タダムネ)の策略で義朝は入浴中に襲われ、非業の死を遂げます。
ここで、金王丸は仇討ちを果たしたという説もありますが、それはフィクションのようです。
忠致はその後、壱岐守に任ぜられたという明確な史実があるので、短期間のうちに金王丸が暗殺したというのは矛盾するからです。
駿河国(静岡県中部)にも長田父子がいて、彼らは頼朝に敵対したがために梟首(斬首した人の首を木にかけてさらすこと)されました。
それが混同されて、一部で伝わっているものと思われます。
また、仇討ちを果たしたのちに渋谷の館へ急いで帰り、出家して土佐坊昌俊と名乗ったいう説もあります。
これについては幾つかのバリエーションがあるのですが、私の調べた限りにおいては別人説の方に分があると思います。
土佐坊昌俊は大和国興福寺金剛堂の堂衆だったのであり、また新発田市の川東郷土資料にも、当時の土佐坊昌俊は奈良の真言僧であり、金王丸とは別人であると述べられています。
主君の義朝を失ってから、金王丸は京都へ入り、出家して牛若丸(のちの源義経)に仕えたという説もあります(滋賀県大津市和邇に伝わる金王丸由来書による)。
ひとつだけ確実なのは、京都にいる義朝の側室・常磐御前の元を訪れ(しばらく滞在したようです)、義朝の最期を報告したということ。
先の川東郷土資料によると、常磐御前は金王丸に、義朝の関東武士に宛てた手紙と、義朝の護持仏を託したとのことです。
そして金王丸は裏日本経由で、各地を転々としながら北上。
最終的に義朝の異母弟の護念上人を頼って、現在の新発田市菅谷へ辿り着きます。
護念上人の略歴ですが、幼くして出家し、比叡山延暦寺のある院の座主を勤めます。
平治の乱で源氏が敗れてから身の危険を感じるようになり、諸国を流浪ののちある天啓を受け、加治荘菅谷に留まることにしました。
近くに庵を建て、笈に背負って京都から持ってきたご本尊の頭部を安置。
これが菅谷寺(現在の菅谷不動尊)の開基となったのです。
金王丸もその地が気に入ったのか、そこを終の棲家にしようと決めたのでしょう。
菅谷からは二王子岳がよく見えます。
その一角の大平山の山中に(ニノックススキー場手前の道路脇に、大平山国有林と書かれた標識が立っています)、京都から大切に持ってきた義朝の形見である護持仏を安置したのでした。

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(写真は、下石川舞台付近から見た二王子岳。青の矢印の小ピークが大平山と思われるが、要調査。王子権現が祀られている場所は、丁度矢印の延長線上の谷間です。左側にニノックススキー場のコースが顔を覗かせています。)

その際、義朝の父・義家が信仰した王子権現(東京都北区王子本町にある王子神社のこと)の分霊を勧請し、名称を王子権現としたのでしょう。
これが王子権現(王子神社)の由来です。
隣の二王子神社とは成り立ちが全く異なり、名前は似ていますが、両者に関連はありません。
彼はその後、家来の勧めで妻帯し、子をもうけます。
菅谷から二王子山麓にかけての上下石川、上下楠川、上下三光集落には渋谷性が多いのですが、それらの人たちは金王丸の子孫だと当地では言い伝えられています。
下石川に土着した金王丸は能舞台を近くに作り、家来や村人と共に能を楽しみながら余生を過ごしたようです。
菅谷小学校の南500mに舞台という名称の集落があるのですが(下石川地区の一角)、まさにこの集落の名称の起源がここにあります。

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(写真は舞台付近。左端の三角形に盛り上がった林の中に諏訪神社が鎮座する。)

ネットで閲覧できる地図では、国土地理院の地形図に舞台という地名が載っています。
また、坂井川にかかる橋にも舞台大橋があり、史実を今に伝えています。

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(下を流れるのは石川川。)

金王丸の没年は定かではありませんが、国道290号線から滝大橋を渡って間もなくの共同墓地の一角に、金王丸の墓と伝えられている墓があります。
これについは、章を改めて述べることにします。

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