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2016年5月29日 (日)

護念上人の墓と菅谷寺

渋谷金王丸が仕えた源義朝は、多くの兄弟がありました。
その中の一人、源慈応(=護念上人)は幼くして仏門に入り、比叡山で暮らします。
義朝が亡くなると平家の勢力は増し、彼は帰依していた比叡山無動寺の不動明王像の”御頭”を背負い諸国を行脚。
越後国加地庄菅谷山(新発田市菅谷)まで辿り着くとそこで啓示を得、背負ってきたご本尊を安置することを決意します。
ときに1185年、鎌倉幕府が設立される直前のことであり、比叡山を離れてから26年の歳月が経過していました。
頼朝にとっても護念上人は叔父にあたります。
佐々木源氏の流れを汲む佐々木盛綱~奥山庄を支配していた城氏を破り、要害山に城を築いて当時の加治庄を支配していた人物。彼にとっても護念上人は叔父にあたる~は、鎌倉に幕府を開いた頼朝に護念上人が自分の支配地に来たことを報告、彼の仲介により護念上人は頼朝に会いに鎌倉へ行きます。
そこで頼朝はたいそう感激した言います。
鎌倉滞在4日目に、頼朝は原因不明の病で床に臥せっていた娘の”大姫”の祈祷を依頼。
するとたちまち大姫の体調は回復したということで、頼朝は護念上人に不動尊のために荘園を寄贈したいと申し出ます。
しかし、清貧を旨とする護念上人はこれを固辞、滞在17日後に「都は賑やかすぎて私にはふさわしからず」と言い残し、越後へと帰ります。
承元4年(1210年)には、頼朝の子・源実朝が七堂伽藍を寄進。
建長5年(1253年)、雷火により伽藍は焼失しますが、本尊だけはみたらせの滝にてタニシに守られ無傷だったという有名なエピソードが残されています。

Img_3745

(みたらせの滝)

Img_3731

境内に残る、護念上人の碑。
これはあくまで記念碑であり、墓ではありません。
墓は、箱岩峠へ抜けていく道路の途中に案内板が立っていますので(次の写真参照)、そこから杉林の中へ入っていきます。

Img_3724

往時、伽藍が建ち並んでいた寺境の沢を見下ろす小高い丘の上に、墓は建てられました。

Img_3709

墓までは徒歩約2~3分。
ふかふかした杉林の中の小道を、800年もの間、どれだけの人が行き来したことでしょう。
林の中へ入ってすぐ、そんなイメージが視覚的に現れました。
なんという心地よさ。
感謝や祈りをもって連綿と人が歩き続けた道は、このように空間が磁化されるのです。

Img_3714

Img_3716

(37 58 49.6N 139 24 32.5E  標高49.7m)

なんという優しい空間でしょう。
静かに至福の時が過ぎていきます。
正治2年(1200年)、58才で没す。
来年は菅谷寺の、例の不動明王像の7年に一度のご開帳の年(平成29年4月27日~5月22日)。
来年は是非その時期に来てみたいと思います。

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