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2016年5月の20件の記事

2016年5月30日 (月)

潮風に吹かれながら

ぼくはEOS 40Dから、二桁Dのモデルチェンジの度に買い換えている、キャノンのお得意さんです(^^;)
80Dに買い換えるか、それとも高感度性能重視で(ホタルや星景メインですから)値頃感が出てきた6Dにするか随分悩みましたが、総合的な使い勝手を重視し、最新モデルの80Dを買いました。
フルサイズでホタルを広角レンズで撮る場合、当然絞りは開放かそれに近い絞りを選択するわけですが、その場合レンズに接近してきたホタルの軌跡が太く写りすぎるきらいが出てくるのです。
個人的には、ホタルの光(軌跡)は、できるだけシャープに細く写したいと思っています。
なので、パンフォーカスの範囲が広くなるAPS-C機には、フルサイズ機に対してメリットもあるのです。

早速、3機種でダークの比較をやってみました。
条件はISO6400, 3分で3枚連射、3枚目の画像で比較しました。
70Dのみ、他の2機種とは違う日(前日)に撮っています。
ドナドナ前のラストショット?です。
ノイズリダクションはオフ、全てMサイズのjpeg撮って出しです(強調処理は行っていません)。ちなみに、気温はいずれも22~23度でした。

Img_8186_60da

60Da

Img_3814_70d

70D

Img_0003_80d

80D

70Dに比べたら、随分改善されましたね。このあと、CS6でレベル補正(オート)をかけた画像でも比較したのですが、それだとより一層、70Dとの差が出ました。
しかし、60Daがまださらに上を行っている事実に驚愕。
差はわずかですが、これにより60Da、現役続行です。あと2~3年は頑張ってもらいましょう。
日曜の夜、快晴だったのでテスト撮影に出撃。
同時に買ったトキナーの14-20mm F2.0のテストも兼ね、いつもの60Daでなく、80Dを持って行きました。

Img_0067_77p

ISO1000, F2.5で、固定撮影3枚、追尾撮影4枚を合体させています。

Img_0081p_6400_2

ISO6400, F2.0, 8秒のワンショット(追尾撮影)です。
8秒なら、追尾でも背景の写り方は固定撮影と変わりません。
結論から言うと、まずカメラ(80D)についてですが、感覚的には70Dより2割ほど高感度性能が上がっていると感じました。
ISO6400でも、なんとか使える感じ。70DはISO5000から上は緊急用と感じましたが。
80Dはヒメボタルの撮影でも、充分戦力になりそうです。
次にレンズについてですが、海外のサイトの詳細なレビューを読んでから買ったので、その高性能ぶりは予測の範囲内のこと。
絞り開放から使えます。歪曲も、周辺光量落ちも少ないです。
周辺部の星像もシグマの18-35mm F1.8並みにいいですし、色収差もほぼ皆無。
フォーカスリングの機構が時代遅れなのが玉に瑕ですが、天体写真では最初からマニュアルフォーカスしか使わないのでよしとしましょう。
同社の11-20mm F2.8 PRO DXも併用していくつもりですが、全ての項目においてこのレンズを凌駕しています。

Img_0060_62p3

ISO1600で、固定撮影、追尾撮影それぞれ1枚ずつを合体。
絞りは固定撮影F2.8、追尾撮影の方はF2.0。
今日のブログのタイトルは、この写真に対して付けています。
ISO1600なら、全然ノイズは気になりません。
カメラの写りはいいし(^-^)、実に気持ちのいい夜でした。
この日は様々な組み合わせで撮りましたが、どんなに枚数を重ねても散光星雲の赤が出てくるわけではないので、ノーマルカメラで天の川を写す場合はワンショットで構わないかな、と思いました。
80Dのテスト撮影は今回限り、次回から星景は再び60Daで撮るつもりです。
最後にこの場所ですが、岩船港です。
10年以上前はシーバス狙いでかなり足繁く通っておりました。
昨年久々に夜間に下見に来たのですが、赤灯台を正面に見る位置まで堤防を歩いてくると、そこから先端にかけては、正面の海岸線に人工光が一切視野に入らないことを確認しました。
35mm換算で20mm程度の画角なら大丈夫です。16mmだとわかりませんが。
この日は明るい漁船が数隻、背後の沖合にいたので真っ暗というわけにはいかなかったですが、漁船がうんと沖合にいるときは意外と暗くなるのです。
天の川も結構下の方までディテールが写ります。
それにしても、昔に比べると防波堤に入って釣りをしている人の数が劇的に減りましたね。
先端部には一人もいなかった。ある意味、寂しかったです。

2016年5月29日 (日)

護念上人の墓と菅谷寺

渋谷金王丸が仕えた源義朝は、多くの兄弟がありました。
その中の一人、源慈応(=護念上人)は幼くして仏門に入り、比叡山で暮らします。
義朝が亡くなると平家の勢力は増し、彼は帰依していた比叡山無動寺の不動明王像の”御頭”を背負い諸国を行脚。
越後国加地庄菅谷山(新発田市菅谷)まで辿り着くとそこで啓示を得、背負ってきたご本尊を安置することを決意します。
ときに1185年、鎌倉幕府が設立される直前のことであり、比叡山を離れてから26年の歳月が経過していました。
頼朝にとっても護念上人は叔父にあたります。
佐々木源氏の流れを汲む佐々木盛綱~奥山庄を支配していた城氏を破り、要害山に城を築いて当時の加治庄を支配していた人物。彼にとっても護念上人は叔父にあたる~は、鎌倉に幕府を開いた頼朝に護念上人が自分の支配地に来たことを報告、彼の仲介により護念上人は頼朝に会いに鎌倉へ行きます。
そこで頼朝はたいそう感激した言います。
鎌倉滞在4日目に、頼朝は原因不明の病で床に臥せっていた娘の”大姫”の祈祷を依頼。
するとたちまち大姫の体調は回復したということで、頼朝は護念上人に不動尊のために荘園を寄贈したいと申し出ます。
しかし、清貧を旨とする護念上人はこれを固辞、滞在17日後に「都は賑やかすぎて私にはふさわしからず」と言い残し、越後へと帰ります。
承元4年(1210年)には、頼朝の子・源実朝が七堂伽藍を寄進。
建長5年(1253年)、雷火により伽藍は焼失しますが、本尊だけはみたらせの滝にてタニシに守られ無傷だったという有名なエピソードが残されています。

Img_3745

(みたらせの滝)

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境内に残る、護念上人の碑。
これはあくまで記念碑であり、墓ではありません。
墓は、箱岩峠へ抜けていく道路の途中に案内板が立っていますので(次の写真参照)、そこから杉林の中へ入っていきます。

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往時、伽藍が建ち並んでいた寺境の沢を見下ろす小高い丘の上に、墓は建てられました。

Img_3709

墓までは徒歩約2~3分。
ふかふかした杉林の中の小道を、800年もの間、どれだけの人が行き来したことでしょう。
林の中へ入ってすぐ、そんなイメージが視覚的に現れました。
なんという心地よさ。
感謝や祈りをもって連綿と人が歩き続けた道は、このように空間が磁化されるのです。

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Img_3716

(37 58 49.6N 139 24 32.5E  標高49.7m)

なんという優しい空間でしょう。
静かに至福の時が過ぎていきます。
正治2年(1200年)、58才で没す。
来年は菅谷寺の、例の不動明王像の7年に一度のご開帳の年(平成29年4月27日~5月22日)。
来年は是非その時期に来てみたいと思います。

2016年5月28日 (土)

王子神社と渋谷金王丸 (4)

(4)金王丸の墓

金王丸の生涯でも書いたように、彼は源義朝に仕えていた時代から剛勇無双の士として知られていました。
そして下石川(新発田市)に土着してからも剛毅な性格は知れ渡り、武芸の腕においても卓越したものがあったと言われています。
坂井川左岸の河岸段丘に共同墓地があり、そこに金王丸の墓と言い伝えられている石碑がひっそり杉林の中に佇んでいます。

Img_3765

坂井川の方から撮った写真です。
正面の木立の手前に共同墓地があるのがわかります。
こんもりとした特徴的な木立の中に、金王丸の墓があるのです。

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農道に面して、案内板が立っています。
しかしながら、そこから林の中に通じる道は薮に埋もれていました。
右側の側面が薮が浅かったので、そこから中へ入りました。

Img_3759

(37 57 49.2N 139 24 30.0E  標高43.1m)

なんと石碑が全て草に覆われています。
目を凝らしてみると、全部で5つの石碑があるようです。
地元では鬼の墓として知られてきました。
現代においても突出した能力(特に体力面)を持つ人のことを、あいつは鬼のように・・・と形容したりしますが、彼もユーモアと尊敬を込めてそのように形容されたのかもしれません。
石碑は全て東を向いて立っています。
1992年発行のの新発田郷土史・新発田と周辺の遺石探訪によると、背後の3基は実は仏や菩薩の梵字のみを刻んだ”板碑”で、右から「胎蔵界と金剛界の大日二尊・金剛薩捶」、中央は「阿弥陀仏」、左は上部剥落で不明、下部は不動明王の種字が認められるとのこと。
3基の前面に立つ碑は、正面に「渋谷金王丸」、左の側面に「文政十一年七月」「松田与右エ門立之」と彫られています。

Img_3760

文政十一年は1828年。金王丸が生きていた時代とは大きく乖離しています。

Img_3764

最も北側、スギの根元に立つ碑については、どの資料にも言及がありません。
表面を覆っている草を丁寧に取り除いてみたのですが、風化が激しく、文字らしきものは残っていないようでした(上の写真)。
なので、これが唯一金王丸の墓である可能性が残っている石碑です。

2016年5月27日 (金)

王子神社と渋谷金王丸 (3)

(3)能舞台はどこにあったか

下石川(新発田市)に土着した金王丸は、能舞台を作り、自ら能を演じると共に村人たちと能を鑑賞したと言います。
下石川の一角に、今でも残っている舞台という地名の由来はここにありますが、それでは舞台はどこにあったのだろうかと調べてみました。
結論から言うと、文献上ではそれを示唆する文章は出てきません。
それならばと、現地へ追加取材へ行き、あちこち歩いてみました。
手元にあるゼンリンの住宅地図に、詳しく集落としての舞台の範囲が記載されているのですが、そこに神社マークがあります。
ちょうど小高い森か丘のような地形上にそれはあり、現地調査でもすぐにその地形はわかりました。
5月25日のブログ記事で掲載している2枚目の写真で、左端に写っている林がそれです。
拡大してみます。

Img_3787

何かありそうです。
そこへ至る農道の入り口に次のような案内板が立っていました。

Img_3775

裏に詳しく内容が書かれてあり、要約すると諏訪神社境内にスギ3本、モミ、シナ、ブナの計6本の巨木があり、それらは六神木として崇められてきたそうです。
昭和55年に、新発田市の保存樹木として指定されたとあります。
ただし、樹齢は最も古いもので350年とあるので、金王丸が生きていた800年前とはかけ離れており、当時の様子は知るべくもありません。

Img_3782

(37 57 53.4N 139 24 54.4E  標高51.8m)

森の入り口へ行ってみて驚きました。
完全に薮に埋もれています。
しかし、鳥居はしっかり残っており、諏訪神社の文字もまだ風化していません。

Img_3799

薮は最初の7mが深かったですが、以降は踏み跡がはっきりしてきました。
取り囲むように立っているこれらの木が例のご神木ですね。

Img_3807

最も高い杉の木の下には、このような案内板も立っていました。

Img_3803

神社の建物はまだ朽ち果てていません。
意外としっかりしています。
ちなみにこの諏訪神社、”新発田市史”の神社一覧には載っていません。
上石川と中川の境界付近に、神明宮という立派な神社が鎮座するのですが、大正天皇が即位した際、上・下石川と中川の3集落内の諸社を合祀して神明社を建立したそうです。
それからは忘れ去られた存在だったのでしょう。
しかしながら、このように原型を留めているということは、まだ一部の人が参拝していることを暗に物語っています。
おそらくは舞台地区の一部の人々によって。
この一角こそが、金王丸が能舞台を設けた場所ではないかと直感しました。
地形といい立地条件といい、ぼくが金王丸だったらこの場所を選ぶでしょう。
不思議な磁力が神社からは感じられました。

2016年5月26日 (木)

王子神社と渋谷金王丸 (2)

(2)王子神社への行き方

Ouji_shrine

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スキー場のレストハウスまでは、途中のゲートの手前に車を置き、そこから徒歩で40分ほど。ニノックスの広大な初心者用ゲレンデの右端にダートの道がありますから、そこを歩きます。約15分で第一クワッドリフトの終点に着きます。
小道はさらに続いているので、先へ進みます。5分も歩けば堰堤に出ます。
堰堤へ降りる踏み跡を右に見送り、さらに進むとすぐ行き止まりになります。
そこから河原へ降り、対岸へ渡ります。

Img_3664

ここが徒渉地点。
中央やや右の岩から左側の瀬は深いので、右側の落ち込みを渡ります。
雪代水が落ち着いてきた頃でないと、渡れないでしょう。
身長182cmの私で、太ももの中程まで濡れました。

Img_3697

渡り終えた対岸から、来た方向を写したもの。
左側の落ち込みを徒渉します。
岩に残置ロープがあることに気づきました。上の写真に写っていますね。
それほど傾斜はきつくないのでロープは必要ないかと思います。
どっちみちかなり古いものらしく、すり切れているので使えませんが。
どうやら、このルートで間違いないようです。
生い茂る草をかき分け進んでいくと、すぐ前方の大きな岩の下に、小さな祠が建っているのが見えてきました。

Img_3671

オーバーハング状の岩の下に、コンクリート製の祠があります。

Img_3675

その岩を、横から見るとこんな感じ。
霊気を感じるのですが、重々しいそれではなく、爽やか?な気の流れを感じます。

Img_3679_2

今でも参拝者が来ていることを伺わせます。
この中に、今でも義朝の護持仏が安置されているのでしょうか・・・
かなり長い間、そこでまどろんでいたような気がします。
そして、ふと我に返りました。
地形図記載の神社マークはここではありません。
沢の合流点から(実際、右手に小沢が流れています)やせ尾根に取り付き、やや登った段丘の中程に神社があるはず。
地図を片手によく周囲の地形を観察すると、祠のすぐ右手にある尾根の取り付きから踏み跡が伸びているのがわかったので、もう少し歩いてみることにしました。
落ち葉が積もった滑りやすい河岸段丘を、おっかなびっくりトラバースしていきます。
すぐ踏み跡は途切れましたが、進むべき方向ははっきりしているので、迷わず歩き続けました。
すると7~8分で、地図の等高線が示すように、比較的平らな樹海地帯に出ました。
下草は低く、まばらにブナと杉が生えています。
この日はGPS機器を持っていき、要所要所で高度を確認しながら進みました。

Img_3691

神社は標高525~530mの辺りに建っているはずですが、あまりに気持ちのいい林なので、右手から小沢が合流する標高547mの地点まで歩いてみました。
そこから歩いてきた方向を写したのが上の写真。
かつては、恐らくは戦前まではこの場所から神社の建物が前方奥の方に見えたはず。
建物が残っていないことはすぐわかったので(かなり昔に放棄されたのでは?代わりにアクセスのしやすい、三光川を渡ったところに祠を作ったのではないかと)、遺構を探しながらこの丘を歩き回りました。

Img_3688

(37 55 4.6N 139 28 47.8E 標高530.9m)

2~3ヶ所候補地があったのですが、その中でここが最もそれらしい場所でした。
不定形の岩や石が散乱しており、標高も丁度531mなのです。

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(37 55 4.5N 139 28 46.4E 標高525.3m)

この場所もかなり怪しいと感じました。やはり、ここも岩が散乱しており、高度的にも条件にかないます。
ところで、神社は木造であったのか、それとも二王子神社手前の祓殿みたいに石造りであったのかわかりませんが、取りあえずほぼ位置を特定することが出来たので、その意味では満足しました。

2016年5月25日 (水)

王子神社と渋谷金王丸 (1)

5月13日、ニノックススキー場(新発田市)奥の山腹に鎮座しているであろう王子神社を探すべく、現地を訪れました(ブログ記事参照)。
そのときは水量豊富な三光川に行く手を阻まれ、1/2.5万地形図に記載されている神社マークの位置まで踏破することはできませんでしたが、24日に再度チャレンジ。
今度はなんとか辿り着くことができました。

Img_3670

(37 55 4.6N 139 28 41.8E 標高502.7m)

もう一度行ってみようという気になったのは、前日に王子神社の由緒を詳しく書いているサイトを見つけ(リンクを貼っておきます)、そこに書かれている内容に心を揺り動かされたからです。
それまで、単なる山ノ神を祀ったものではないかと考えていたのですが、事実は全く異なりました。
なんと、源義朝の護持仏を勧請した神社だったのです。
ニノックススキー場パラダイスコースの南の谷間を三光川が流れていますが、河岸段丘を少し上がった標高約530m地点に王子権現こと王子神社を開基したのは、義朝の家来だった渋谷金王丸(コンノウマル)でした。

(1)渋谷金王丸の生涯
現在の東京都渋谷区の丘陵地帯に館を構えたのが渋谷重家(河崎基家)、つまり渋谷金王丸の父した。
ちなみに、渋谷3-5-12にある金王八幡宮は、渋谷重家によって創建されたものです。
渋谷氏の先祖を辿っていくと、垣武天皇の子である葛原親王の第三王子高見王の子・高望王に行き着きます。
高望王は桓武平氏の祖としても有名。
のちに源氏の頭領・義朝の家来となった金王丸ですが、血筋的には平氏の血が流れていました。面白いですね。
彼は豪勇夢双の士として知られ、源義朝の忠臣として保元の乱で活躍。
しかし、続く平治の乱では源氏は平家に破れ、義朝は東国へ落ち延びようとします。
その途中で立ち寄った尾張国の長田荘司忠致の館に滞在しているとき、平家方に寝返った忠致(タダムネ)の策略で義朝は入浴中に襲われ、非業の死を遂げます。
ここで、金王丸は仇討ちを果たしたという説もありますが、それはフィクションのようです。
忠致はその後、壱岐守に任ぜられたという明確な史実があるので、短期間のうちに金王丸が暗殺したというのは矛盾するからです。
駿河国(静岡県中部)にも長田父子がいて、彼らは頼朝に敵対したがために梟首(斬首した人の首を木にかけてさらすこと)されました。
それが混同されて、一部で伝わっているものと思われます。
また、仇討ちを果たしたのちに渋谷の館へ急いで帰り、出家して土佐坊昌俊と名乗ったいう説もあります。
これについては幾つかのバリエーションがあるのですが、私の調べた限りにおいては別人説の方に分があると思います。
土佐坊昌俊は大和国興福寺金剛堂の堂衆だったのであり、また新発田市の川東郷土資料にも、当時の土佐坊昌俊は奈良の真言僧であり、金王丸とは別人であると述べられています。
主君の義朝を失ってから、金王丸は京都へ入り、出家して牛若丸(のちの源義経)に仕えたという説もあります(滋賀県大津市和邇に伝わる金王丸由来書による)。
ひとつだけ確実なのは、京都にいる義朝の側室・常磐御前の元を訪れ(しばらく滞在したようです)、義朝の最期を報告したということ。
先の川東郷土資料によると、常磐御前は金王丸に、義朝の関東武士に宛てた手紙と、義朝の護持仏を託したとのことです。
そして金王丸は裏日本経由で、各地を転々としながら北上。
最終的に義朝の異母弟の護念上人を頼って、現在の新発田市菅谷へ辿り着きます。
護念上人の略歴ですが、幼くして出家し、比叡山延暦寺のある院の座主を勤めます。
平治の乱で源氏が敗れてから身の危険を感じるようになり、諸国を流浪ののちある天啓を受け、加治荘菅谷に留まることにしました。
近くに庵を建て、笈に背負って京都から持ってきたご本尊の頭部を安置。
これが菅谷寺(現在の菅谷不動尊)の開基となったのです。
金王丸もその地が気に入ったのか、そこを終の棲家にしようと決めたのでしょう。
菅谷からは二王子岳がよく見えます。
その一角の大平山の山中に(ニノックススキー場手前の道路脇に、大平山国有林と書かれた標識が立っています)、京都から大切に持ってきた義朝の形見である護持仏を安置したのでした。

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(写真は、下石川舞台付近から見た二王子岳。青の矢印の小ピークが大平山と思われるが、要調査。王子権現が祀られている場所は、丁度矢印の延長線上の谷間です。左側にニノックススキー場のコースが顔を覗かせています。)

その際、義朝の父・義家が信仰した王子権現(東京都北区王子本町にある王子神社のこと)の分霊を勧請し、名称を王子権現としたのでしょう。
これが王子権現(王子神社)の由来です。
隣の二王子神社とは成り立ちが全く異なり、名前は似ていますが、両者に関連はありません。
彼はその後、家来の勧めで妻帯し、子をもうけます。
菅谷から二王子山麓にかけての上下石川、上下楠川、上下三光集落には渋谷性が多いのですが、それらの人たちは金王丸の子孫だと当地では言い伝えられています。
下石川に土着した金王丸は能舞台を近くに作り、家来や村人と共に能を楽しみながら余生を過ごしたようです。
菅谷小学校の南500mに舞台という名称の集落があるのですが(下石川地区の一角)、まさにこの集落の名称の起源がここにあります。

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(写真は舞台付近。左端の三角形に盛り上がった林の中に諏訪神社が鎮座する。)

ネットで閲覧できる地図では、国土地理院の地形図に舞台という地名が載っています。
また、坂井川にかかる橋にも舞台大橋があり、史実を今に伝えています。

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(下を流れるのは石川川。)

金王丸の没年は定かではありませんが、国道290号線から滝大橋を渡って間もなくの共同墓地の一角に、金王丸の墓と伝えられている墓があります。
これについは、章を改めて述べることにします。

2016年5月22日 (日)

高坪山の飯豊見晴台

念願の高坪山(570.4m)へ登ってきました。
ルート自体はオーソドックスで、あらかわ総合運動公園~登山口~虚空蔵平~飯豊連峰見晴台~高坪山~登山口と辿る一周コースです。
一番の目的は、飯豊連峰展望台からの景色を確かめること。
大気がもやっていたので遠景はあまりくっきりとは見えなかったですが、期待通りの大パノラマに大興奮。

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正面の雲に隠れているピークは、エブリサシ岳~門内岳にかけての稜線。
その右横にちょこんと顔を出しているのは、北股岳のようです。

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パノラマをつなげてみると、こんな感じ。
天の川がいい感じで昇ってくるのでしょうね。
ここまで登山口から最短ルートで来ればおそらく1時間10分で登ってこられるので、星景写真の候補地としては自分的にはぎりぎり許容範囲。
しかし、問題は光害がどの程度目に付くか、ですね。
ロイヤル胎内パークのホテルの明かりが、どのくらい上空へ漏れているか。
きっと胎内スキー場の上の方まで届いていると思うのだけど、そうだとしたらがっかりですね。
気合い入れて夜間来てみたい気もするし、次の写真の場所(牧草地)でお茶を濁した方が無難のような気もするし・・・微妙。

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5月19日にあらかわ総合運動公園へ来たとき、既に下見済みの場所。
やっぱりいい場所です。本当に気持ちがいい草原。
右端に見えている建物は虚空蔵山荘。
さて、高坪山への登山道は非常によく整備され、どちらのルートも歩きやすく、山歩き初心者でも大丈夫です。
高坪山山頂からの眺めも決して悪くないのですが、何といっても飯豊連峰見晴台からのパノラマが圧巻でした。
高坪山からこの展望台まで7~8分で来られるので、単純往復ルートで来られる場合でもこの展望台まで足を伸ばすことをお勧めします。
また、展望台手前のブナ林が非常に美しく、それを鑑賞するだけでも足を伸ばす価値はあります。

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最後に、高坪山山頂から見た佐渡と日本海の景色。
光線の状態によっては、とても印象的な絵が撮れるでしょう。

2016年5月21日 (土)

城の山古墳と古舘館跡

胎内市は史跡の宝庫です。
先日、県立埋蔵文化財センターへ行って、全県的な視野で遺跡や史跡の分布を勉強してきました。
その観点からすると、国指定史跡は、下越では胎内市に集中しているのです。
そのためもあってか、胎内市教育委員会は文化財の保護にとても力を入れています。
その一躍を担っているのが、最近も吉川弘文館から「甲信越の名城を歩く」を出版された、考古学者で現在は胎内市の教育委員会に勤務する水澤幸一氏。
余談になりますが、上記の本は奥山荘歴史館で2割引で販売されています。
胎内市教育委員会が作成した”胎内市の文化財”という小冊子もお勧め。
これほどよくできた観光パンフレットを見たことがありません。
市内の史跡に立つ案内板の文章にも言えることですが、解説が非常に的確です。
概して非常に詳しく書かれているのですが、文章は読みやすく、決して難解ではありません。
そんなこんなで、あれよあれよというまに考古学ファンになってしまった私・・・
今日は、胎内市の史跡をさらに2ヶ所取り上げてみます。

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まずは、4世紀前半に作られたものと言われている城の山古墳。
当時はヤマト政権が勢力を伸ばしていた最中。
2012年の第6次発掘調査で、素晴らしい副葬品が多数発見されました。
近畿地方の古墳で発見されているヤマト政権の有力者たちの副葬品と、限りなく同等レベルのそれだったのです。
実際、黒川郷土文化伝習館でそれらの出土品を見たのですが、何より色鮮やかな状態で発掘されているので、その美しさにまず目を惹かれました。
古墳というと、既に何者かに掘り起こされ、めぼしいものは盗難に遭っていることが多いものですが、この古墳は全く手つかずの状態で発掘されたのです。

さて、もう一箇所は古舘館跡。

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奥山荘城館遺跡は複数の遺跡の集合体ですが、その一角をなすのがここ古舘館跡です。
15~16世紀前半にかけて使われた館跡。
文献や所在地から判断すると、三浦和田一族の高野氏の居館であったと言われています。

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面積6700㎡に及ぶ広大な郭内に、現在は曹洞宗の寺院・常光寺が立っています。
上の写真は、本来の虎口(城郭などで最も要所にある出入り口のこと)から内部を写したもの。
教育委員会が立てた案内板(次の写真)が反対側の出入り口にありますが、あそこは近年土塁を切り崩して通路としたものだとのこと。

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よく出来た案内板です。
胎内市教育委員会に敬意を表します。

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こちらは境内(かつての東郭)の一部。
発掘調査した面積は敷地全体の2%にすぎないそうなのですが、そこから多数の高級漆器類が見つかりました。
それならもっと掘り起こしてみればいいのに、と思うのですが、居住者(常光寺)がいるから難しいのでしょうか。

2016年5月20日 (金)

古津八幡山遺跡に酔いしれる

新発田市で見つかった中で最大級の縄文遺跡が青田遺跡。
そこの出土品が新潟県立埋蔵文化財センター(県立植物園の隣)で見られると知り、早速そこへ行ってきました。
展示物はとても充実しており、これで入館料が無料なんて信じられないくらい。
おまけに多数の土器が保管してある収蔵庫や、7万冊もの考古学関係の本が収納されている図書館にも出入りができるのですから。
見学後、古津八幡山遺跡という幟が何本もはためいているのを見て、小道を登っていくと・・・

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キタ~という感じです。
古津八幡山遺跡は弥生時代の大規模な高地性環濠集落で、2005年に国の史跡に指定されました。
新津市教育委員会が14回も調査を行い、整備した上で、昨年4月から全面公開を開始。
入場は無料です。

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面積は広く(11.5ヘクタール)、尾根の西端には県内最大規模の古墳があります。
この丘一帯では多数の竪穴式住居が見つかっており、それらは弥生時代のものと推定されているようです。
丘には7~8軒の竪穴式住居が復元されており、本当に弥生時代にタイムスリップしたような錯覚に囚われます。
そして、ここは星景写真にも絶好の場所です。
あれこれ構図を練りながら見学しました。
名付けて”弥生のムラ星景”。
弥生時代の星空はさもありなんというほどの透明度に恵まれたら、是非その時はここで星見をしてみたいですね。


2016年5月19日 (木)

あらかわ総合運動公園のインスペクション

高坪山山麓の金峯神社を訪ねた後、初めてグリーンパークあらかわ総合運動公園へ立ち寄ってみました。
胎内よいとこ、星見に行くぞ”というHPをやっているtantanさんが、昨年ブログにここで撮った写真を数枚アップしていたのを覚えていたのです。
運動公園の南に位置する縦長の池は思ったより大きく、天の川が昇ってきたらこれは絵になるな、と思いました。

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水はかなり濁っていますが、釣りにも良さそうですね。
事実、あとでもう一度立ち寄ってみると、ジャージ姿の中学生が二人現れ、ルアー釣りを始めたのです。
声を掛けてみると、ブラックバス狙いということでした。
左岸の踏み跡は登りとなりますが、右岸の踏み跡は水面から2mほどの湖岸をほぼ水平にトラバースしており、どこまで行けるか歩いてみました。
1枚目の写真には写っていませんが、角度を変えてよ~く見ると、ロッジのような建物が左手奥に見えていたので、それが何かを確かめる狙いもありました。

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まるで、思い出のマーニーの世界ではないですか!
(実はこの写真、左右反転させています。)
建物の前まで踏み跡は途切れることなく、続いていました。
残念ながら建物は廃墟と化しており、窓ガラスは割れ、玄関の引き戸も壊れています。

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建物の前に昭和49年建立の記念碑があり、それによるとかつては高齢者用の施設だったようです。
このまま荒れ放題にしておくのはよくないですね。
整備し直すのが予算の関係で無理なら、撤去して大きめの東屋でも作ればいいのにと思います。
さて、運動公園の面積はとても広く、野球場が二つもあります。
奥の方の野球場はナイター設備もなく、夜は真っ暗になりそう。

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方角的にも天の川はちょうどいい感じで昇ってくるだろうし、”スタジアム星景”に良さそうです。
帰宅して改めてグーグルアースをチェックしていて気づいたのですが、この先にかなり広い牧草地があるんですね。
夜間はここまで上がってくる車はないだろうし、天体写真に良さそうです。

2016年5月18日 (水)

二王子神社旧参道詳説

5月12日にも類似の記事をアップしましたが、なんだんかんだとこの1ヶ月で旧参道を今日(18日)を含めて4回訪れました。
ようやく点と線がつながり全容が見えてきましたので、改めて現状をまとめてみました。

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国土地理院発行の1/2.5万地形図記載の点線は、一部踏み跡が消えているものもあり、逆にしっかりした踏み跡があるのに載っていないものもあります。
そこで、今日現在の現状をまとめてみたのがこの図です。
地図の真ん中あたりに”この区間泥道”と書きましたが、先月からこの付近で地元のさくら森林組合さんが伐採作業を行っています(次の写真参照)。

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特に林道から丸木橋へ行く途中の道が深い泥道となっているので、歩行は難しいです。
堰堤まで車通行可、と書きましたが、この林道に2台の重機が入っているので、当面マイカーでの進入はやめたほうが無難だと思います。
伐採作業が終われば、堰堤前の路肩に車を停めることができます。
さて、二王子山神社から旧参道を歩いてみましょう。

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急な石段を、ロープにつかまりながら下ります。
この石段、急な上に下側へ傾いており、表面は苔むしています。
そのためビブラムソールの登山靴でも滑りやすいです。
二王子神社から太鼓橋までの往復であれば、スパイク付きの長靴がお勧めです。
石段を下り終え、最初に現れる案内板の主がこの杉の木。
包岩楓大杉といい、その名の通り、岩を抱え込むように根を張っています。
太鼓橋が近づくと、左に登龍杉、右に祓い戸跡(祓殿跡)が現れます。

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登龍杉の裏側に回り込むと、根元に大きな穴が空いています。
ストロボを焚いて空洞を撮ってみたのですが、かなり大きな穴でした。
とても神聖な空間だと感じました。

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太鼓橋は昭和47年に付け替えられたもの。
現在の橋はコンクリート製です。
さて、太鼓橋を渡って数分歩くと、次の写真の分かれ道が出てきます。

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左へ進めば、程なく車道へ出ます。
右へ進むと旧参道。
右へ進んだ場合、勾配はここからきつくなり、踏み跡もやや薄れかけます。
特にテープとかもないのですが、進路はひたすら道なりにまっすぐ進んで下さい。
途中1ヶ所だけ、杉の倒木が道に覆い被さっている箇所がありますが、そこで右下の斜面へ逃げず、枝を押しのけまっすぐ進みます。

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急坂を下り終えると、この水路へ出ます。
水路をまたぎ、右斜め前方へ踏み跡を辿ります。
すぐ2~3m先で踏み跡は二手に分かれるのですが、左へ進みます。
急な崖を4~5m下れば、ダートの林道へ出ます。
ところで、この水路にはよく見ると、右岸(上流から下流を見て右側)にかすかな踏み跡が付いています。

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(左側に踏み跡があるのがわかるでしょうか?)

ここを辿っていくと約100mで落差8mほどの大きな滝に出ます。

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踏み跡もここまで。
滝は3段くらいに分かれており、なかなかの迫力です。
二王子神社横の妹背滝は、現地の案内板にも書いてありますが、車道を作った際、滝の岩盤を一部破壊したので、落差は昔より少なくなっています。
なので、この滝が姫田川では最も落差があるのではないでしょうか。

2016年5月13日 (金)

幻の王子神社

国土地理院の1/2.5万地形図には、ニノックススキー場から南東方向の山あいに神社のマークが載っています。
いろいろ調べたら、王子神社であることがわかりました。
祭神は大山祇神。
しかしながら、詳しい由緒とか創立年代は不明。
ぼくが中学生の時に買った40年前の地図にも載っており、その時からすごい山奥に神社があるなあと感心していました。
ここ1ヶ月の間に2度下見を済ませ、満を持して行ってみたのですが、残念ながら道は途中で途切れていました。

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右に踏み跡があります。
50mも進むと、軽トラが通れる程の道幅の林道となりました。
とはいえ道は原始に帰しかけて苔むしているのですが、歩く分には何も問題なかったです。
100mも歩くと、右側に瀬音が大きくなってきて、堰堤が現れました。
地図に堰堤は載っていませんが、支沢の分岐点よりやや手前だったでしょうか。
林道は堰堤の手前30mくらいから道幅が1mほどの踏み跡となり、堰堤の先10mの地点で消えていました。
地図ではその先で本流を渡るのですが、この道が見当たらなかったです。
地形的にも、徒渉点の辺りで右岸が崖となり、その先へ進むには高巻きが必要。
かといって、河原へ降りても水量が多いため徒渉も不可能。

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堰堤にはこのように階段が設けられており、対岸へ渡れるようになっていたので対岸へ渡りました。
しかし、2ヶ所で大きく斜面が崩落しており、トラバースも写真に写っている左端までしか行けません。
そこからやせ尾根に取り付き高巻きを試みたのですが、斜面が急で、ザイルがないと下降が困難。
なので、安全第一とばかりすぐ引き返してきました。

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堰堤から上流部です。
標高差にして50mも登ると右の急斜面の上になだらかな斜面が現れ、そこに神社が建っているはず。
しかし、堰堤から先は全く人が入っていないと思われ、おそらく神社も廃墟と化しているのではないでしょうか。

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堰堤から下流部。
素晴らしい渓相です。
コースタイムですが、ニノックスへと通じる車道の中程にあるゲートから歩き始め、スキー場のレストハウスまで40分。
そこから堰堤まで20分弱でした。

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せっかくなので、いつか星景写真を撮るときのために、絵になる構図探し。
ただっ広い初心者コースの中程に木立がありますが、これを入れるとアクセントになるかな?
12日は夜間も快晴が続きましたが、もう体力も気力も尽きました。
また来年ですね。

2016年5月12日 (木)

二王子神社旧参道を歩く

2012年7月23日のブログ記事に書いたように、その日初めて二王子神社への旧参道の一部を歩きました。
その後、何度か旧参道の入り口、通称一本杉(下に、南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が立っている)までは何度か足を運んだのですが、5月9日、初めて旧参道の残り半分を歩いてみました。
背の高い杉並木の中を行く旧参道は、石碑から数十メートル先で踏み跡で途絶えています。
今回歩いたのは、そこより100mほど上手にある農道ルート。
この小道は国土地理院の1/2.5万地形図に記載があります。
30年くらい昔になりますが、バイクでこの農道へ山菜採りに来たことがあり、周辺の地形はよく把握しているつもり。
果たして、田貝川右岸へ続くはずの踏み跡が残っているかどうか不安でしたが、ちゃんと残っていました。

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これは、地形図に点線で記載されている農道からの1枚。
経度139 26 25.6 E  緯度37 54 48.6 N  標高128.3m
山頂方面の展望が利き、星景写真にも良さそうです。
農道上部から林に突っ込む200mほどの区間の道がわかりにくかったですが、所々赤いテープが木の枝に巻かれているので、それを見つけるとよいと思います。

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林に入ると程なく瀬音が大きくなってきて、とうとう念願の丸木橋まで到達することができました。
下越山岳会の重鎮の登山家・五十嵐篤雄氏の著書「飯豊道」に、大正15年生まれの著者が8才のときに初めて旧参道を歩き、二王子山神社へ参拝したときの様子が克明に書かれています(p266-269参照)。
そこで描写されている、田貝川に架かる丸木橋がちゃんと残っているのです。

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この辺りは川幅も広く、まさに深山幽谷といった風情。
太古から続くであろう、美しい流れがそこにありました。
今回はここで引き返したのですが、丸木橋を渡り、標高差にして50mほどの通称七曲がりの坂を登り切ると、車道から分岐している旧参道と出会うはず。
ふたつの旧参道が出会う地点までは前回神社側から歩いたので、完全踏破とまではいかないものの、旧参道が今でも通しで歩けることを発見したので満足でした。

さて、ここからは2012年7月に撮った写真です。
周りの自然のと完全に一体化している太鼓橋(昭和47年に付け替え)は必見。
ちなみに、橋の手前の両側にそびえる杉は夫婦杉(或いは鳥居杉)。

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濡れて光沢を帯びた岩盤の上を幾筋もの水が滝となって流れ落ち、古式騒然たる苔むした石橋と併せて一幅の絵画とも言える風景が展開します。

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太鼓橋を渡ると、祓い戸神社跡(もしっくは祓殿跡)があります。
昔、祭礼の時に参拝者はここでお祓いを受けたそうです。
樹勢が龍の昇る姿に似ているから、ということで名付けられた登龍杉の存在感も特筆もの。
周辺には大きな切り株が幾つも残っていますが、これらは今の神社を建築する際の部材として使われたのだとか。

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この鳥居を過ぎると道は左にカーブし、急な石段が続きます。
登りきれば、現在の二王子神社の立つ境内に出ます。
昔は境内に入る手前に見事な山門(随神門)があったのですが、昭和37年3月、籠堂もろとも登山者の失火で消失しました。
本殿もそれに先立つ昭和23年4月、やはり失火で消失。
今の本殿も立派なものですが、戦前にタイムスリップしてみたいと思うのはぼくだけではないでしょう。

2016年5月11日 (水)

江上館跡を訪ねる

胎内市は旧中条町のことですが、中条の語源は、鳥坂城を根城にした中条氏に由来します。
建仁元年(1201年)城氏が滅亡した後、木曽義仲追討の恩賞として、三浦和田氏の和田義茂に奥山荘地頭職を与えられました。
三浦和田氏は土着して中条氏を名乗り、黒川氏、関沢氏、築地氏、金山氏など多くの庶流を生み出します。

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奥山荘城館遺跡として国指定史跡になっている江上館跡は、14世紀後半から15世紀末まで使われた中条氏の居館跡と考えられています。
中条氏は戦国時代には揚北衆の一員として上杉氏に従い、上杉氏の会津の転封によりこの地を後にし、奥山荘における三浦和田氏の支配は終わったのです。
ニュータウンの一角にある江上館は、近年奥山荘歴史の広場として整備され、発掘時の貴重な出土品を展示する奥山荘歴史館を併設します。
5月9日に初めて見学したのですが、予想以上のスケールの大きさに感嘆しました。
案内板の説明文も詳しく書かれており、豊富やイラストや写真と併せて、とても好感が持てました。
胎内市の歴史的観光資源というと、一般的には乙の乙宝寺や胎内観音ぐらいしか思いつかないかと思いますが、江上館跡は是非訪れてみたい史跡です。

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江上館跡を含む奥山荘城館遺跡については、次のサイトが詳しいので説明を譲ります。
ちなみに、見学は無料(奥山荘歴史館は入場料100円)。
車は歴史館前の駐車場に停めることができます。

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上の写真は、敷地の南東に建つ古館稲荷神社。

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こちらは敷地の北西に建つ鷲麻神社。
同名の神社が市内本郷町にありますが、こちらは本郷町の神社の分霊を祀ったもののようです。
鷲ヶ巣山(村上市)の鷲巣権現の神託によって開墾されたのが本郷村。
つまり、本郷町の産土神というわけです。

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胎内市の史跡(いずれも国指定史跡)を年代順に並べると、次のようになります。
鳥坂城趾(平安末期)->坊城館跡(鎌倉)->江上館跡(室町)
江上館跡から南に200mに位置する坊城館跡は、奥山荘に地頭職として赴任してきた三浦和田氏の領主屋敷跡と考えられています。

2016年5月10日 (火)

胎内の縄文清水

先日初めて胎内市の図書館へ行き、郷土史関連の資料を物色している過程で、興味を引く記事を見つけました。
なんと、胎内スキー場へ行く途中にある熱田坂集落近くの田んぼに、縄文時代から湧き出ている清水があるというのです。
しかも、清水が湧き出ている河岸段丘一帯は、縄文時代から弥生時代早期にかけて大規模な集落があった場所とされ、実際に平成12-13年にかけて行われた発掘調査で、多数の土器や石器、墓や住居跡が発見されたのです。

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その分谷地A遺跡の中に、縄文清水はあります。
行き方ですが、鼓岡の信号のある交差点から熱田坂に行く道路沿いに特に案内板は出ていないのですが、熱田坂の手前(道路左側)に集落の墓が見えてきます。
墓の手前に農道がありますから、そこを左折、農道を150mくらい直進するとこの写真の案内板が立っています。
くだんの縄文清水は案内板の裏、5mほど農道を下ったところにあります。

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エブリサシ岳を一望する絶好のロケーション。
単に景色がいいというだけでなく、この日2時間前に訪れた江上館跡にも言えることですが、例えて言うなら風水的に理想の場所に立地しているのです。

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この農道の前後に集落があったのですね。
発掘すれば、まだまだ出土品は出るだろうということです。
尚、ここでの出土品は、胎内観音横の黒川郷郷土文化伝習館で見ることができます。
この博物館、展示物が豊富で、歴史・考古ファンなら満足すること請け合いです。

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資料によると、年間を通して水温は11度、硬度24の軟水。
確かに冷やっとした舌触り。
軟水特有のまろやかな味・・・抜群にうまい!
万年雪を抱く飯豊連峰の伏流水が噴出しているわけですが、昔、北股岳直下の洗濯平で飲んだ水の味を思い出しました。
それにしても、幾多の水害や地震、気候変動を乗り越え、4000年間同じ場所から水が湧いているなんて奇跡ですね。
そんな感慨にふけりながら飲む縄文清水、同じ胎内市の名水”どっこん水”よりはるかに美味しいと感じました。

2016年5月 9日 (月)

羽黒の観音堂

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この写真は、石切場遺跡上部の廃道から撮ったもの。
この建物に通じる車道があるわけではありません。
よく、昔の人はこんな山中に大きな建物を建てたものですね。

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ここが参拝道の入り口。
右は、鳥坂山の石切山コースです。
”やすらぎ”ベンチがいい味出していますね。
いつ頃設置されたものでしょう?

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観音堂へは、300段近い石段を登っていきます。県内最強?のハードなアプローチ。
観音堂前の広場にはベンチが置かれてあり、絶景が疲れを癒やしてくれます。
さて、観音堂に安置されている十一面観音菩薩(羽黒権現)は、平安時代に北越後を支配した桓武平氏を祖とする城氏が一族の守護神として祀ったもの。
現在の建物は1836年に建築されたもので、その後何度か改修工事を行っています。
直近のそれは、2010年に八幡建築さんによって行われました。
同社のブログに工事終了後の写真が載っているのですが、上の写真と寸分変わりません。
なので、冬囲いをまだ解いていないのではなく、1年中この姿なのです。

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裏に小さな建物があります。
戸を開けて中へ入ってみました。

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穴観音が祀ってありました。
穴観音とは、子宝や安産の願い事を聞いてくれる観音様を意味します。

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毎月16日が月例祭で、ここで読経が厳かに行われます。
さらに年に2回の大祭の日(2月16日と8月9日)には、大護摩が焚かれるそうです。
ユニークなのは、月例祭で祈祷のあと、参拝者全員に昼食のお斎(おとき)が振る舞われること。
古代米、煮物、漬け物、なます、お汁、そして羊羹などのデザートまでもが振る舞われます。
これは昭和5年から続いている習慣で、お供え物として上げられたお米を施したのが始まりだとか。

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帰りに、羽黒三社に立ち寄ってみました。
鎌倉~室町時代にかけてこの地を治めた中条氏の庶流・羽黒氏の居館(羽黒館)がこの辺りに置かれていたのです。
正確に言うと、ここ羽黒三社から徳岩寺にかけての段丘端に置かれていました。
主郭は現在畑地になっていますが、羽黒三社裏と徳岩寺の南側に空堀が残っているので、興味のある方は探してみるといいでしょう。

2016年5月 7日 (土)

羽黒の石切山

鳥坂山(436.4m)への登山コースは幾つかありますが、そのうちのひとつ、石切山コースの途中にそれはあります。

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右のしっかりした踏み跡が正規のルート(石切山コース)。
登り初めてからすぐこのような看板が見えてくるので、ここからロープをくぐって左の廃道へ入ります。

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ここまで駐車場から25分くらいでしょうか。
廃道ゆえ笹藪に覆われていますが、薮はそれほど深くはありません。
この旧登山道はさらに上へと続いており、やがて正規の石切山コースに合流します。
実際に合流点まで歩いてみたのですが、この遺跡?から合流点までは笹藪が部分的に非常に深くなっており、ルートファインディングに苦労することも多々ありました。
ほとんど歩かれていないと思われるので、遺跡から先へは行かない方がいいです。
遺跡までは今月中に、地元の有志の人たちがコース整備をするとのこと。
現在は追憶の彼方へ消え去ろうとしているこの遺跡ですが、歴史に埋没させてしまうにはあまりに惜しい立派な遺跡。
ただし、所々崩壊が進んでいる箇所があるので、自己責任で訪れたとしても洞窟の下側内部へは立ち入らない方がいいでしょう。

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安永年間(1772-1780)、生活困窮者の救済策として凝灰岩で形成された石切り場へ村人を派遣。
石切りの技術を習得させ、石の切り出しを行いました。
石工の数は明治~大正時代には500人近くにもなり、羽黒石は重要な地場産業になりました。
今でも麓の集落には石材屋さんがあります。
巨岩をくりぬいて掘られた大小様々な洞窟は、往時の面影を偲ばせるに充分あまりあるほど。
今回”噂”を聞いて初めて現地へ来てみましたが、下越地方はディープなパワースポットやミステリースポットの宝庫です。
近くの羽黒観音堂も素晴らしかった。
こちらの写真は明日かあさってに載せるつもりです。

2016年5月 6日 (金)

今年初の天の川

薄明を過ぎ、予想よりも自宅から星が見えていたので、5月5日、今年の初の天の川を見に行ってきました。
先月、二王子山の見栄えがする場所をあれこれ物色したわけですが、そのうちの一ヶ所へ。

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EOS60Da + SIGMA18-35mm F1.8 DC HSM (25mm)

次の写真も含め、地上部(固定)と星空部(追尾)は別々に撮っています。
ただし、1枚ずつ。
肉眼では良い星空であるように見えたのですが、全体に微妙な被りがありました。
光害部分も含め、被りを補正せずに(やり方を忘れてしまったというのもある)、色温度もあまりいじらずに処理しています。

さて、この場所は下楠川近くの姫田川にかかる総明院橋からのショット。
やはり夜来てみると、思ったよりも多くの外灯が視界に飛び込んできました。
集落の明かりもさることながら、虎丸あたりの道路の外灯と、あるショップの駐車場の明かり(傘がない)がとても明るかったです。
レンズをもう少し右に振るとサソリの頭が入るのですが、そうなるとより明るい道路の外灯が入ってしまいます。
それを嫌って、このような、ある意味中途半端な切り取り方をしました。
やっぱり外灯が視界に入らない場所で天の川を見てみたいと思い、早速場所移動。

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EOS60Da + SIGMA18-35mm F1.8 DC HSM (18mm)

ということで、やはりここ(上三光)へ吸い寄せられるように来てしまいました。
左手には集落の外灯があるのですが、二王子山方面はもうこの先真っ暗。
だけど、現場では気づかなかったですのですが、鉄塔が真っ正面にそびえています。
昨年も同じ場所に来たはずなのに、もう忘れているし。
火星を入れた構図でも写したのですが、ちょっとそっちは失敗してしまったので、本日の作品はこの2枚だけ。
火星の強烈なオレンジ色の光が印象に残った夜でした。

2016年5月 4日 (水)

三光川上流の探検

昨年5月7日に来たときは、ニノックススキー場へのゲートからスキー場の駐車場(三段になっている一番下の広場)脇の堰堤まで、右岸(上流から下流を見て右側)の河岸段丘を踏破しました。
そしてこの日(3日)、今度はその堰堤から右岸の杉林の中の河岸段丘を500mほど歩いてきました。

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ここへは次の写真で看板が立っている所の、道路をはさんで反対側に”王子まなびの森”と書かれた案内板が立っているので、そこから踏み跡へ入ります。
100mほどで堰堤が見えてきます。
下の河原までも踏み跡が付いており、容易に降りることができます。
ただし、ここから上部へはいったん高巻きと言わないまでも、大きく堰堤を迂回しなければなりません。
ぼくはすぐ河原に降りて沢沿いに遡行したので、正確に堰堤上部の踏み跡がどこから始まっているのかは確かめていないのですが、杉林の中を歩けば、すぐ踏み跡を見つけることができると思います。

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ここには広大な杉林があったのですが、野球場2つ分くらいの面積が伐採されていました。
ここの右側に、堰堤へと続く小道が付いています。

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すぐ杉に覆われた河岸段丘に出ますので、そこを歩きます。
所々、赤のペンキで木に印が付けられているので、そこを目印に歩きます。
しっかりした踏み跡が杉林の中に付いているので、迷うことはないでしょう。
ぼくは所々で河原に降りて写真を撮ったりしたのですが、おおむね上の写真のような渓相が続きます。

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途中、幹周り4~5mはありそうな、立派なブナの大木に遭遇。
写真では大きさがわかりにくいですが、本当に風格がありました。
樹齢数百年は経っていそうです。

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今回は時間の関係で、この場所まで。
本流は右の方に流れており、ここからは見えません。
枝分かれした小沢が静かに流れており、なかなか美しい林床でした。
左側の緩やかな傾斜の崖を5~6m登ると、ニノックススノーパークに出ます。

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レストハウスの真横ぐらいかなと思ったら、レストハウスはかなり過ぎていました。
昨年5月7日の記事にも書いたのですが、国土地理院の1/2.5万地形図を見ると、南東方向標高530mのあたりに神社マークが見えます。
40年前に発行された同じ縮尺の地形図も持っているのですが、そこにも記載があります。
その地図を買った中学生の頃より、この神社が気になっていました。
そこへ行ってみるのが夢なのですが、なぜかいつも躊躇してしまいます。
ゲレンデの右端に、上の写真に見られるようにダートの道がまっすぐ延びています。
この小道も地形図に載っていますね。
この小道を歩いてアプローチすれば、さしたる苦労もなく神社へ至る踏み跡に出るとは思うのですが。
おそらく昔は、その神社から尾根沿いに山頂に至る登山道があったのでしょう。
二王子山は古くは修験道で栄えた山ですが、修験道華やかなりし頃、使われたルートだと思います。
地形図には建物の印が付いているので、余計興味をそそられるのです。
ネットで検索しても一切この神社に関わる情報は出てきません。
図書館の資料にも載っていません。
グーグルアースで見ると、神社に至る踏み跡が付いているであろう地形は確認できました。
でも、ひたすら三光川を渡ってからは深い森のようで、本当に社殿が残っているのかはなはだ疑問。
ところで、三光川上流の河岸段丘の植生は、昨日訪れた森よりは単調でした。
タラの芽も根こそぎ採られているし、新緑はそこそこ美しいのですが、微妙に荒れているのかなという印象でした。

※ブログのタイトルを変えました。里山こそが自分の原点です。
そこを再認識したので、久々にデザインと共にタイトルも変えてみました。

2016年5月 2日 (月)

トトロのいる森

やはりこの森は生きています。
山北町や旧朝日村の山間部へ行けばいくらでもディープな大自然は残っているけど、ここは新発田市管内、標高も100mに満たない山間部。
トトロのいそうな雰囲気を、仮にトトロ度数(10点満点で、10点が最高)と名付けましょう。
県北の某棚田地帯がトトロ度数8。
昨年まではここを超えるところは新発田や胎内の山あいにはないと思っていたけど、ごく最近トトロ度数9の場所を見つけました。

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この日探索した中で最もトトロ度数が高かった森がここ(五頭山麓某所)。
地図に載っていない踏み跡を辿っていったら、トトロに遭遇しました。
背中に背負ったザックからカメラを取り出すからそれまで動かないでねと語りかけると、こちらを射るような視線をダイレクトにハートのあたりに感じました。
トトロどころか、6月になったら、ひょっとしたらお姫様にも遭遇するかもしれません。

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途中、送電線への管理道が分岐したところでUターン。
ちょうどそこが峠のあたりだった。といっても、標高は100mくらいしかないのだけど。
地形図と照らし合わせたところ、この先どの方面に伸びているかがわかったので、そこで引き返しました。
送電線へは必ず保守点検のための道が付いているため、そういった小道を片っ端から踏破してみるのも一興。
最近1ヶ月の間に、5つくらいそういった鉄塔の真下へ登りました。
鉄塔の真下は日当たりの良い広場になっていることが多く、ワラビが生えていたりすることが多いです。
山菜採りが目的なわけではないけれど、自分だけの小ピークを制覇したという達成感が手軽に味わえるのが気に入っています。
そこからの展望も斬新なものであることが多いです。

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森を流れる沢も、とことん美しい。
上流にはご多分にもれず堰堤が3つあるのだけど、そこまで沢沿いに難なく遡行できます。
廊下状の岩場などはなく、女性的な渓相が続きます。

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林道の両岸に展開する杉林は下草が比較的短く、森の中をどこでも自由に歩くことができます。
広葉樹林帯でも同様に下草の短い林が多く、傾斜も緩やかなためやはり自由に闊歩できます。
林道が作られたのは昭和31年。
上部の方は今は車の通行もないようで、歩きやすい登山道と化しています。
植生も豊かで、とにかく様々な植物や山野草に遭遇します。
今までの生涯でこのような森に出会ったのは数えるほどしかありません、残念ながら。

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標高226m付近。
この辺まで来ると、広葉樹林帯がメインになります。
ほれぼれするほど美しい緑たち。
ここで林道は二手に分かれますが、どちらも1kmほどで行き止まりになります(国土地理院の地形図によると)。
ぼくはどちらの林道も500mほど登ったところで引き返したけれど、沢沿いをひたすら遡行するのも面白いかもしれません。
ひたすら優しい渓相が続くので、沢歩き入門にはもってこいです。

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