王子神社と渋谷金王丸 (4)
(4)金王丸の墓
金王丸の生涯でも書いたように、彼は源義朝に仕えていた時代から剛勇無双の士として知られていました。
そして下石川(新発田市)に土着してからも剛毅な性格は知れ渡り、武芸の腕においても卓越したものがあったと言われています。
坂井川左岸の河岸段丘に共同墓地があり、そこに金王丸の墓と言い伝えられている石碑がひっそり杉林の中に佇んでいます。
坂井川の方から撮った写真です。
正面の木立の手前に共同墓地があるのがわかります。
こんもりとした特徴的な木立の中に、金王丸の墓があるのです。
農道に面して、案内板が立っています。
しかしながら、そこから林の中に通じる道は薮に埋もれていました。
右側の側面が薮が浅かったので、そこから中へ入りました。
(37 57 49.2N 139 24 30.0E 標高43.1m)
なんと石碑が全て草に覆われています。
目を凝らしてみると、全部で5つの石碑があるようです。
地元では鬼の墓として知られてきました。
現代においても突出した能力(特に体力面)を持つ人のことを、あいつは鬼のように・・・と形容したりしますが、彼もユーモアと尊敬を込めてそのように形容されたのかもしれません。
石碑は全て東を向いて立っています。
1992年発行のの新発田郷土史・新発田と周辺の遺石探訪によると、背後の3基は実は仏や菩薩の梵字のみを刻んだ”板碑”で、右から「胎蔵界と金剛界の大日二尊・金剛薩捶」、中央は「阿弥陀仏」、左は上部剥落で不明、下部は不動明王の種字が認められるとのこと。
3基の前面に立つ碑は、正面に「渋谷金王丸」、左の側面に「文政十一年七月」「松田与右エ門立之」と彫られています。
文政十一年は1828年。金王丸が生きていた時代とは大きく乖離しています。
最も北側、スギの根元に立つ碑については、どの資料にも言及がありません。
表面を覆っている草を丁寧に取り除いてみたのですが、風化が激しく、文字らしきものは残っていないようでした(上の写真)。
なので、これが唯一金王丸の墓である可能性が残っている石碑です。
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