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2014年10月の18件の記事

2014年10月28日 (火)

オリオンと巨石文明?

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EOS60Da + SIGMA18-35mm F1.8 DC HSM (18mmにて)
ISO1600, F2.0, 34秒 (追尾撮影)

五頭山麓にミステリースポット?を発見(撮影日:10月26日)。
直前に行った早出川ダム近くのポイントと遜色のない暗さ(ただし、北東~東の空限定)。
オリオンのコントラストが凄い。肉眼でシャンデリアのように見えます。
こんな短時間露出でも、オリオンループやコーン星雲がくっきり写るのです。
翌日グーグルアースでチェックしてみたら、五頭山麓に林道の多いこと多いこと。
舗装されている道路だけ調べてみましたが、2~3箇所よさげなポイントを見つけました。
いずれも、標高は250~300mくらいです。
今度、下見に行かなくては。

2014年10月27日 (月)

ポーラーエクスプレス

ロバート・ゼメキス監督の映画・ポーラーエクスプレスをご覧になったことはありますか?
クリスマスイブの夜、少年の前に突如として蒸気機関車が現れます。
途中、サンタを信じる少年少女をピックアップしながら、蒸気機関車は一路北極点を目指すというお話しです。
10月25日19時50分、突如としてポーラー・エクスプレス号は加茂市の冬鳥越スキー場の駐車場に現れました。

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映画では蒸気機関車ですが、バージョンアップして電気機関車になったようです。
昔、蒲原鉄道で使われていた車両を使っているみたいですね。
口をあんぐり開けてぽかんと突っ立っているぼくの後ろに、人の気配がしました。
少年は小太郎と名乗りました。なんか聞いたことある名前だなあ・・・

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二人して、その怪しげな電車をしげしげと観察しました。
2両編成になっていますね。

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スバルのタイゲタ星出身だという車掌さんがせかすので、思い切って乗ることにしました。
二人して、ドキドキしながらホームの階段を上がります。
聞けば、この電車の始発は琴座のベガだそうです。
車掌さんは中央やや右に輝く星を指さし、あそこから来たんだよと教えてくれました。
この電車、地球には太古の昔から来ているそうです。

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あたりに霧が立ちこめてきました。
高揚してきた冒険気分が不安を払拭しました。
でも、なかなか出発しません。
車掌さんが言うには、ぱんださんを待っているのだということ。
そのぱんださんも程なく到着し、車両に乗り込んできました。

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電車が動き出しました。
さらにもう一人、早出川ダム近くの野原でまるひ少年をピックアップしながら、電車は線路をテイクオフしました。
目的地はポーラースター、すなわち北極星。
車掌さんによると、いったんスバルに立ち寄り、北極星出身の車掌さんと交代するということでした。

2014年10月26日 (日)

カノープスと出会えた夜

金沢峠へ着いたのは23時ぐらいだったでしょうか。
ほどなく、地元のおじさんが上がってきました。星景を撮るとのこと。
しばらく展望台から、まったりと星見。レンズはオリオン座方面へ向けています。
オリオン流星群を撮るのが目的。
次の写真は総露出時間50分ですが、残念ながら視野にひとつも流星は流れず。

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EOS60Da + Samyang 16mm F2.0 ED AS

透明度は普通。湖の方はもやがかかっているようで、上空も若干その影響が見られます。
それでもオリオンループはなんとか写ってくれましたが。
さて日付が変わって程なく、おじさんに別れを告げて雄国山へと出発です。
湖畔の休憩舎のあたりはすっぽりと霧に包まれており、視界は5~7mしかありません。
しかし、おおむね標高1050m以上になると、霧の上へ出ることができます。

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登山道の途中からパノラマを撮りました。
こちらからの雄国沼の眺めは新鮮です。
グランデコスキー場の施設の一部でしょうか、奥のオレンジ色の点光源は。
スキーシーズンはもう目前ですからね。

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EOS60Da + Sigma 18-35mm F1.8 DC HSM (35mmにて)
ISO1600, F2.5, 40秒 (追尾撮影)

3時23分撮影。
中央に風力発電所の光が並んで写っていますが、その右端に一個だけ点として写っている光があります。それがカノープス。
3時ちょうどくらいに、発電所の一連の光の中央部分に現れ、それからその上を横切りながら右方向へと移動していきました。
低空の透明度は悪く、肉眼では視認不能。双眼鏡でかろうじて見えますが、時々視界から消えることもありました。
写真では、どのカットも写っていましたが。

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EOS60Da + Sigma 18-35mm F1.8 DC HSM (24mmにて)
ISO1250, F2.2, 42秒 (追尾撮影)

3時30分撮影。
手前の小ピークの山陰に隠れるかと思いきや、隠れずに上空を横切っていきました。
この頃から低空の透明度が上がってきました。
山頂の展望台に上がると、裏磐梯方面がよく見えます。
残念ながら思っていたより明るく、展望台に立ったときは感動と失望の入り交じった複雑な心境でした(次の写真)。

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最後に、カノープスのトリミング画像を掲載して締めくくります(3時18分撮影)。

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EOS60Da + Sigma 18-35mm F1.8 DC HSM (35mmにて)
ISO1600, F2.2, 41秒 (追尾撮影・トリミング)

2014年10月25日 (土)

カノープスを撮る

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撮影日時: 10月25日3時50分
場所: 雄国山山頂(1271m)
EOS60Da + SIGMA 18-35mm F1.8 DC HSM (24mmにて)
ISO1600, F2.5, 45秒 (追尾撮影)

ステラナビゲーターでのシミュレーション通り、カンープスは2時55分過ぎに現れ、撤収した4時近くまで見えていました。
これは一番最後に写したカット。
3時半頃までは低空の霧が深く、双眼鏡でもカノープスは見えたり、見えなかったり。
その後尻上がりに透明度が上がってきたので、最後のカットが一番くっきり写りました。
ただし、それでも低空の透明度は悪い方で、肉眼では見えませんでした。
山頂には展望台があるのですが、そこだけ風が強かったです。
従って、カメラが揺れてしまう可能性があったため、山頂から直線距離で20mほど下った登山道から撮りました。
カノープスの左側の、流れている数本の光跡は風力発電所の照明だと思います。
手前の窪地が白い雲で覆われていますが、その下に雄国沼があります。
大気の状態のせいもありますが、思ったより光害を感じます(被り補正はしていません。ほぼ撮って出し画像)。
その点が少し残念。

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プロソフトンAを車の中に忘れてきたので、どんな星座が写っているかわかりませんね。
カノープスもそうですが、ぜひ拡散系フィルター使用バージョンも残したかった。
ここでは、北斗七星が右に写っています。
ぼくの立っているすぐ左側に、木製の小さな展望台があります。
強風が吹くと、微妙に揺れます・・・
山頂までの登山道は、遊歩道並に歩きやすく、湖畔の休憩舎から40分くらいで来られるのでアウトドア初心者にもお勧め。
360度、素晴らしい展望が得られます。

2014年10月24日 (金)

新潟日報メディアシップを撮る

初めて新潟日報メディアシップを見学してきました。
ここはいいですね。特に、4階のオープンガーデンが気に入りました。
20階の展望台からの眺めも素晴らしいけど、やはり、ガラス越しでない方が気持ちがいいですからね。
もともと建築物の写真を撮るのが好きなのですが、あらかた県内の古い建物は写し尽くしました。
それで、今度は現代建築にチャレンジです。
現代建築物は、直線がびしっと決まるから気持ちがいいです。
もちろん、画像処理では水平をきちんと出し、時にアオリを加えます。
現場で三脚を使い、アオリレンズを使って撮るのが理想ですが、三脚の使用を禁じている場所が多いので、現場では普通に手持ち撮影です。
参考書として、「最高の建築写真の撮り方・仕上げ方」細矢 仁著を挙げておきます。
実は数日前に買ったばかりの本。
基本的には初心者向きの内容なのですが、用いられている写真のレベルが高く、上級者でも参考になること大だと思います。

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EOS 70D + Sigma 17-70mm F2.8-4.0 DC MACRO OS HSM (共通)

最上階からもたくさん写真を撮りましたが、それらは割愛します。
ガラスが多くの面積を占める建造物の撮影は、PLフィルターを持って行くといいと思います。上の写真も、すべてPLフィルターを装着しています。
雰囲気のいいカフェもあり、ここはデートスポットにも最適ですね。

2014年10月21日 (火)

日出谷と鹿瀬の星空

ぼくの両親は会津の山都町出身だったので、毎年お盆の時期に磐越西線に乗って母の実家へ泊まりに行くのが常でした。
そんなわけで、磐越西線の各駅には思い入れがあります。
津川町はかつては会津の文化圏だったので、県境に近い日出谷や豊実の民家の形や造りはほぼ会津のそれに似ています。
ここは日出谷駅近くの民家ですが、線路から向こう側一帯は昔ながらのひなびた雰囲気が残っています。

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EOS70D + Samyang 16mm F2.0 ED AS (追尾撮影)

とはいえ、ご多分にもれず外灯はそれなりに明るいので、カラーで写すとかなりがっかりしてしまいます。
撮影時刻は10月19日19時ちょうど。
夕方までは快晴だったのですが、薄明終了直後から微妙に霧が発生し、場所の選定に迷っている間に天の川は1/3くらい薄雲に隠されてしまいました。
阿賀野川沿いには素晴らしいポイントがたくさんあるのですが、川霧の発生が玉に瑕です。

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EOS70D + Samyang 16mm F2.0 ED AS (固定撮影)

帰りに鹿瀬のあたりの阿賀野川に立ち寄りました。
ここは、JR鹿瀬駅から直線距離で400m離れている橋の上。
やはり外灯の数が半端じゃなかったので、モノクロに変換しました。

雄国沼の星空 (後編)

20時頃、北東岸から金沢峠直下の湿原地帯へ移動。
木道を下見がてら一周してみましたが、湿原の面積は思い描いていたより広大です。
少なくとも、たきがしら湿原よりは広い。
これは、初夏のニッコウキスゲの時期に来なくては!

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EOS60Da + Samyang 16mm F2.0 ED AS
ISO2000, F2.2, 30秒 (追尾撮影・ワンショット・以下共通)

20時すぎ、快晴になりました。とはいえ、ちょっと眠い空でした。
牡牛座やぎょしゃ座は明るい恒星が多いので、湖面によく映えます。
南の天の川にばかりこだわってきましたが、どの方面の空でもOKですね。
これはこれで独特の味わいがありますから。

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EOS60Da + Sigma 10mm Fisheye F2.8 EX DC HSM
ISO2000, F2.8, 45秒 

それにしても、上空をひっきりなしに飛行機が行き交います。
飛行機の軌跡を入れずに写すのは、例え露出時間が30秒程度だとしても困難なほど。
でも、どんなシーンだって一期一会。
広大な夜空をキャンパスに、飛行機が自由にラインを描いている。なんと素晴らしい。
これはアートなのです。

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EOS60Da + Sigma 10mm Fisheye F2.8 EX DC HSM
ISO1600, F2.8, 30秒 

ということで、アート?な絵をもう1枚。

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EOS60Da + Sigma 10mm Fisheye F2.8 EX DC HSM
ISO2000, F2.8, 60秒 

薄雲が多かったせいで、光害はかなり感じます。
比較的北東は暗かったですが。
木道は幅が狭いので(90cmくらい?)、三脚を立てる際は細心の注意が必要です。
白鳥座を撮るときばかりは、天体用カメラのありがたさを感じます。
でも、70Dの方がわずかですが高感度画質は60Daを上回っているんですよね。
ホットピクセルの数でも同様。
来年は60Daの出番が減るかもしれません。

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EOS60Da + Sigma 10mm Fisheye F2.8 EX DC HSM
ISO1600, F2.8, 60秒 

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EOS60Da + Sigma 10mm Fisheye F2.8 EX DC HSM
ISO2000, F2.8, 50秒 

21時30分、この写真を最後に撮影終了。
同じ構図ですが、微妙にかすみがかっているのがおわかりになられると思います。
透明度が完璧なら、このままオリオン座が上ってくるまで待機するつもりだったのですが。
22時頃、金沢峠へ戻ってみると、下界(会津盆地)は半分霧に包まれていました。
来年の再訪を期して、現地を後にしました。

2014年10月20日 (月)

雄国沼の星空 (前編)

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撮影日:10月18日  場所:雄国沼(金沢峠より)
EOS60Da + Samyang 16mm F2.0 ED AS (共通)

天体用カメラなので、ややカラーバランスが崩れていますが・・・
ここは標高1100m。900m以上は、紅葉は終盤といった感じでした。

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前回と同じ場所へ行きましたが、薄明終了間際から急に薄雲が湧き出しました。
それでも、この場所は別格です。
空気の透明感が違う。
風があり、湖面はさざ波が立っているので、天の川はあまり映りません。
薄雲が喜多方市の街明かりを反射しているので、それが湖面にも投影されている。
明るい・・・
来年、完璧な条件の時にまた訪れたいです。
写真は、薄明終了直後の18時33分撮影。

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せっかく来たので、雲が取れるまで粘ってみました。
本曇りになりかけたのですが、晴れてくれるという確信があったので。
予想通り19時26分、一時的に雲が消えてくれました。本当に山の天気は変わりやすい。
とはいえ、低空部はまだまだ薄雲に覆われてはいますが。
オレンジ色の光は火星。
18時台は結構がさごそと背後の林で音がしていましたが、この頃には完全な静寂が湖畔を包み込みました。
頭の中を、ムーランというディズニー映画でLea Salongaが歌っている名曲”Reflection”のメロディーが流れていました。

・・・Who is that girl I see
Staring straight
Back at me?
Why is my reflection someone
I don't know?
Somehow I cannot hide
Who I am
Though I've tried
When will my reflection show
Who I am inside?
When will my reflection show
Who I am inside?

2014年10月14日 (火)

ぐる~ぷ新潟 第15回コンサート

10月12日、新潟市の音楽文化会館にて、恒例の”和楽器集団 ぐる~ぷ新潟”のコンサートが終了しました。
今年は明訓高校ダンス部とのコラボ曲もあったのですが、それが素晴らしかったです。

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今年8月6日~9日、神戸市で行われた第27回全日本高校・大学ダンスフェスティバルにて、ベスト10に当たる審査員賞を受賞するなど、過去幾多の入賞を重ねている名門。
これはエルフ(妖精)という題名の曲のワンシーン。
まさしく、目の前で妖精たちが飛び回っていました。

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ぐる~ぷ新潟さんのコンサートは、毎年10月の開催になります。
地方でレベルの高い和楽器の演奏を聴く貴重な機会です。
近年、倍音がいろいろな意味で注目を集めていますが、尺八などの和楽器はまさに倍音キング。
そういった意味でも、個人的に和楽器の演奏を生で聴くのは楽しみです。

2014年10月11日 (土)

新発田旧市街探訪 (35) 番外編~石泉荘再び~

昨日は特別編、今日は番外編と、いったん最終回と題しておきながら、なかなか終わりません(汗)。
さて、9月21日に石泉荘を取り上げていますが、そのときは事前に何の知識もありませんでした。旭町がそこにあったことすら知らなかった。
昨日の記事にも書きましたが、最近、新発田の廓の歴史について詳しく書かれた小冊子を読む機会を得ました。
10日の記事に旭町の遊郭配置図を載せましたが、そこにちゃんと花菱の名前が載っています。その隣は若月楼。現在石崎家が住んでいる家は若月楼のあった場所です。
パズルのピースが合ってくると、俄然興味が増してきます。
もう一度じっくり見学したくなり、10日に石泉荘を再訪しました。

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パンフレットを読んで初めて知ったのですが、門と塀は”花菱”時代のものだそうです。
この石畳の場所には昭和43年まで80坪ほどの土蔵造りの住宅があったそうですが、老朽化が進んだため取り壊したとか。
しかし、その材料で母屋と離れ座敷をつなぐ渡り廊下を作ったそうです。

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新発田川に面した離れ座敷の上の間(11帖)。かつての花菱の中核。
清水園と共催で、ここで市民茶会が開催されることもあります。

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昭和初期に新築された、玄関に続く6帖の和室。

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新発田川に面した離れ座敷(右)と化粧の間(左)。
縁側も当時のままだそうです。

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川戸がここにもありました。
今でもこの辺の新発田川は水質もよく、異臭も全くありません。
かつては筏下りの光景も見られたとか。
いつか新発田川をカヌーで下ってみたいですね。

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離れ座敷と並び、登録有形文化財の指定を受けている茶室。
明治28年、市内にあった藩医の茶室兼隠居所を移築したものです。
ここだけ、内部の見学はできません。

2014年10月10日 (金)

新発田旧市街探訪 (34) 特別編~花街の歴史~

1週間ほど前に、大変興味深い資料に巡り会いました。
「新発田郷土誌 第十号」(新発田市史編纂委員会)です。
この本は毎号様々な角度から新発田の歴史や風俗に関する話題を取り上げており、興味が尽きません。
中でも今回、第十号の”新発田の廓を語る”(松田時次著)は面白かったです。
幾つか確かめておきたい点が出てきたので、改めて現地へ足を運び、再取材を重ねました。
10月1日の記事と一部重なりますが、改めて取り上げてみたいと思います。
尚、「新発田郷土誌 第十号」は新発田図書館の他には、新潟市のほんぽ~とにバックナンバーが置いてあります。

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松田氏の一文に旭町と三宜町の絵地図が載っていたので、それをフリーハンドで書き写してみました。
それと、三宜町(現御幸町2丁目)に関しては地形が大きく変わっているため、現在の地図と大正時代に作成された地図を併せて貼り付け、比較しやすいよう、独自の資料を作成してみました。

(1)旭町の歴史
新発田の廓の歴史を語る前に、いつ頃から私娼が出現し始めたのかを検証してみます。
松田氏によると、十返舎一九は「道中金の草履」で新発田の”かぼちゃ”について触れているそうです。
かぼちゃとは、私娼を指す隠語。江戸時代末期から明治初期にかけて、小人町(現・大手町3丁目)や徒士町(現・大手町2丁目)に出没していたと言われています。
風紀の悪化を理由に何度も官憲は取り締まりを試みましたが、いたちごっこ。
明治8年には、歩兵第三連隊第二大隊が東京から新発田へ移駐してきました。
その後、歩兵代十六連隊の設置の話も出てきたため(明治17年6月設置)、当局は大局的な見地から、公娼が必要であるとの業者の主張を受け入れ、旭町(現・諏訪町3丁目)が朱印地として選ばれたのです。
こうして明治13年、新発田藩の武芸や馬術の訓練場だった旭町に、17軒の妓楼が集まり、廓の営業が始まりました。
ところが明治37年、新高楼から出火、隣接する上鉄砲町の民家50軒余を巻き込み、約70軒が焼け出されてしまいます。
もともと、廓が住宅街の近くにあるのは風紀上いかがなものかという声も少なからずあり、この火災をきっかけに、花街は思い切り郊外の伊勢堂地内(現・御幸町2丁目)への移転を余儀なくされたのでした。
正確に言うと、焼け残った1軒と、新たに同じ場所に新築した2軒の計3軒は引き続き旭町で営業を続けたのですが、新しい廓街に対抗できず、ほどなく三宜町へ3軒とも移転・合流したのでした。
その3軒の中の1軒が花菱。
花菱の場合は焼け跡に、市内にあった武家屋敷の一部を移築、そこで営業を続けていたのです。
まもなく花菱は三宜町へ移転しますが、その建物は現存しています。
それが石泉荘の離れ座敷(登録有形文化財)。
もともとの経営者が旭町へ移って以降、新津で製油を業としていた石崎家の所有となり、別邸として使われるようになったのです。
近年、この離れ座敷と庭園は一般公開されるようになり、ぼくも今年初めて見に行ってきたばかり。
花菱の歴史を思い起こしながら座敷に一人佇んでいると、当時のワンシーンがフラッシュバックしてくるような感覚に陥りました。
ぼくのこのブログでは、9月21日の記事で写真を掲載しているので、興味のある方はご覧になって下さい。

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かつての旭町メインストリートです。
1枚目の資料でいうと、E地点から写した写真になります。
右側の石泉荘さんの駐車場は、かつての”えび屋”跡。
この辺は明治時代の区画がそのまま残っており、絵地図と現在の地図とがきれいに整合します。
左側には明治37年当時5軒の妓楼がありましたが、現在は6軒の住宅が建っています。

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1枚目の資料でいうと、F地点から写真です。
本当に狭い通りです。
尚、新発田郷土誌第十号の”新発田の廓を語る”の記事に載っている旭町の絵地図は南が上になっています。
ぼくが作成した資料では、地図はすべて北を上にして描き直してあります。

(2)三宜町の歴史
松田氏の”新発田の廓を語る”の記事は、妓楼の経営者の子孫の方から直接お話しを聞いているので、非常に詳しく正確です。
1枚目の資料に掲げた”三宜町朱印全図”などは大変貴重なもの。
さて、ここでも困った問題が発生しました。
池の形や周囲の道路の形状が、やはり1枚目の資料に収録した大正6年に作られた地図ときれいに一致しないのです。
この界隈は戦後急速に開発が進み、道幅の広いバイパス道路ができたことで池は跡形もなく消失しました。
バイパス道路のできる以前、大正~昭和30年代初期の間に作られた市街図を探したのですが、見つけることができませんでした。
もっともあったとて、住宅地図が出現したのは割と近年のことですから、縮尺の大きさや正確さは期待できませんが。
10月1日の記事でも書きましたが、「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」に載っている写真がどこから写されたかを突き止めたいという思いがありました。
でも、昔の道路や目標物がほとんど残っていないため、現在の住宅地図上で正確になぞることができないのです。大体の場所は判明しているのですが。

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「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」p66、昭和30年代に撮られたとされる写真をよく見たら、左隅の電信柱の先に左へ折れる小道がわずかに見えていることに気がつきました。
10月1日の記事、2枚目の写真と同じ場所には違いないのですが、あの本の写真同様、その小道への入り口がわかるよう写し直したのが上の写真です(A地点)。
ぼくの使用レンズは35mm換算40mmですから、あの本の写真は50mmの標準レンズで撮られたものと推察できます。

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とにかく五叉路の交差点付近は新旧の道路が交錯しまくっています。
これはC地点からの撮影。思わぬ所に小路が隠されています。

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こちらはD地点から五叉路の交差点の半分を切り取ったもの。
美容室の左側に車の通行不可能な細い路地が見えます。
昭和初期に作られた道路ではないかと推測するのですが、どうでしょう。
この美容室の右に沿って延び、神明神社へと抜ける道路は明治時代からあったもの。
1枚目の自作資料によると、緑のラインの道路にあたると思われます。

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こちらはB地点からの写真。
ここからスタートし、ふかみ美容室の前を通って長徳寺方面へ抜ける小道は、やはり大正時代に作成された地図に記載の古い道(緑のライン)だと思います。
結局、三宜町の名残を示すもので現存している最もわかりやすいものは盆栽仕立ての松の大木でしょう。
1枚めの資料中央の写真をご覧下さい。
10月1日の記事にも書きましたが、この写真に写っている最も背の高い松と同じ木と思われる木が現地に残っています。

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この中央の松の木が生き字引なのです。
池は二つあったようなので、「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」66pの大きな写真(イコール1枚目の資料中央の写真)に写っている池がどちらの池なのかにより、妓楼街の配置は若干異なってきます。
おそらくあの写真は、池と池の中間の草地、大きい方の池の真後ろからメインストリートである西方向へカメラを向けていると思うのですが。

と、場所の特定のみに意識が向き、三宜町の歴史については触れていませんでした。
新発田郷土誌第十号の松田氏の記事の抜粋になりますが、56年に渡る三宜町での廓の歴史について、主な妓楼の移り変わりについて述べられています。

*若月楼 途中で経営者は北海道に渡り、相生楼が引き継ぐ。
*花菱楼 掛倉に移り、芸妓置屋に転身。新盛楼が引き継ぐ。
*岩名風呂屋が招月楼に転身。
*新潟古町の東京亭が神風楼を開く。
*佐渡から丸川清三郎という周旋屋がやってきて金鶏楼を始める。・・・etc

昭和14年頃から戦争の足音が高くなってくると、大半の土地は進出してきた軍需工場に身売りします。
終戦を迎え、残った業者(招月、常磐、三高、初音、新盛、相生)は引き続き営業を続けましたが、経営は苦しかったようです。
その後、招月は招月旅館に、相生は末広旅館に、初音は掛倉に移転し、久和原旅館に、新盛楼は関川村の雲母温泉で万代館を開業、三高楼は建物を改造してアパート経営に転身と、昭和30年代に各業者は各地に散っていったのでした。
ところで、各妓楼の前には、松やつつじが植栽されていました。
人の心を浮き立たせる演出の意図がありました。
盆栽仕立ての松が妓楼のシンボルと言われるのはそのためです。
あと、松田氏の記事を読んで印象に残ったのは、廓芸者の存在です。
娼妓のようにからだは売らず、三味線や鼓、横笛、太鼓や踊りなど、5~6才の頃から仕込まれた芸一本で身を立てていました。
この習慣はよその花街でも見られます。
芸のレベルは非常に高かったそうです。
ぼくは弁天池(瓢箪池)の場所を突き止めようとしてきましたが、そこには次のような背景があります。
もう一度、松田氏の文章を引用します。
「毎年8月12~13日のお盆の頃ともなれば、日没時からドンドン、ドドン、ドンドドンと遊郭踊りに合わせる独特の太鼓の音が遠く田舎の方まで響くと、近郷の若者達の心はうきうきしてくるのである。そして、やがて夜もふけかかる頃、元気のよいねじり鉢巻、浴衣着流しの者から、腰に手拭い、頭に鳥打帽の者など、町はずれの三宜町にぞくぞくと集まってくる。
廓の中ではどの座敷の門前も紅灯を競って灯し、中央の瓢箪池の周囲は角灯やぼんぼりが松の緑を水面に映して若者達の気持ちを一層かりたてるのである。
いつも禁足令の籠の鳥たちも入念に化粧して、艶を競ってなじみの客や野次馬客と池の周りを賑やかに、夜の更けるのも忘れて踊りに踊る。こうして20日頃までの約1週間、廓の夜は千客万来の賑やかさで明け暮れるのである。」
新発田まつりのけんか台輪や民謡流しもいいですが、このように幽玄な世界を一目見てみたいと夢想しながらこの章を終えます。

2014年10月 9日 (木)

皆既月食の神秘的な輝き

生まれて初めて皆既日食を見ました。
光害のない場所で見たかったので、村上の山奥(ぶどうスキー場近くの棚田)まで足を運びました。
行くとき、大きな満月が東の空に上がってくるのを車窓から見ながらドライブしましたが、この日の月はなんかヨロコビに打ち震えているように感じられました。

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EOS70D + SAMYANG 16mm F2.0 ED AS
ISO1250, F2.8, 15秒 (追尾撮影)

時刻19時7分。まだ月食は進行中。
暗さが一気に増し、垂直に立ち上がる天の川の全貌が見えてきました。
ここは標高350m。
先日行った喜多方の雄国沼の1100mに比べたら1/3でしかないけど、光害はこちらの方が少ないので、眼視の快感度は等しいです。
実は、透明度はこの頃が最も高く、19時半を過ぎると急激に気温が下がってきたためかレンズも曇りがちになりました。
皆既月食の最中に写した他の写真と比べると、それほど天の川の写りに違いはないことがわかります。

Img_5785

EOS70D + SAMYANG 16mm F2.0 ED AS
ISO1600, F2.8, 30秒 (追尾撮影)

時刻19時40分。
皆既月食まっただ中。やや場所を池の左に移しています。
前回ここへ来たのは7月上旬でした。夏を経て、水量が減っているかどうかが不安の種でしたが、全く変化がなかったので一安心。
空の暗さは思ったほど暗くはなりませんでした。
新月期の暗さを100とすれば、感覚的には皆既月食中は65~70といったところでしょうか。
天の川の付け根の左側、やや黄色くなっているのは村上の街明かり、右側の青白いそれは日本海の漁り火の影響です。

Img_5798_5803stitchp

EOS70D + SAMYANG 16mm F2.0 ED AS
4枚パノラマ合成

時刻20時9~14分。
月から天の川までを繋ぎ合わせてみました。

Img_5795_97stitch

EOS70D + SAMYANG 16mm F2.0 ED AS
ISO1600, F2.8, 30秒 (追尾撮影)
2枚合成

時刻:20時6分~7分。
こちらは縦に合成したバージョン。
個人的に正方形の構図は好きなので、よく多用しています。

Img_5780

EOS70D + SAMYANG 16mm F2.0 ED AS
ISO1600, F2.8, 35秒 (追尾撮影)

天の川以外では、これを写しました。
いつもの60Daではないので、白鳥座の散光星雲の赤味はほとんど出ておりません(少しピンが甘いです)。
北~北東の空はかなり暗かったです。もちろん光害も皆無。
空の良さが、短時間露出のこの写真から想像して頂けると思います。

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EOS70D + SAMYANG 16mm F2.0 ED AS
ISO1600, F2.8, 25秒 (追尾撮影)

皆既月食中の月。
(10月10日、画像を1枚追加)

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EOS70D + SIGMA 10mm F2.8 FISHEYE EX DC HSM
ISO1600, F2.8, 20秒 (追尾撮影)

時刻20時47分。
皆既月食は終わり、月は半月に近い大きさになってきました。
「蒲萄の自然を大切に」と書いてある看板の前で記念撮影。
プレアデスがちょうど昇ってきました。
素晴らしい夜でした。

2014年10月 6日 (月)

新発田旧市街探訪 (33) 中央町1丁目再び(最終回)

8月31日から始めた新発田の街角散策シリーズも今回で終了です。
尚、過去記事をご覧になりたい方は、ブログ右欄にカテゴリーという項目がありますので、そこで新発田市街という言葉を見つけ、それをクリックして下さい。
すると、32回の記事がまとめて表示されます。
尚、無料で見ることのできるネット地図では、マピオンが最も詳しく正確です。
最大1/1500にまで拡大することができ、固有名詞も住宅地図並みに多く記載されています。

ラストは、もう一度ぼくが育った家周辺の見慣れた風景を取り上げて終わりにします。

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家の前の狭い小路を裁判所側へ抜けると、左手にこの風景がありました。
その眺めは今も変わっていません。
この松林は、かつての武家屋敷の面影を留めるもの。
このアングルでこの風景を見るたびに、心がしゃきっとします。

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今は失われた小路の入り口。
約15m先で新しくできた道路と繋がっています。
左手は裁判所。
この周辺の風景は、ここ30年の間に大きく変貌してしまいました。

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裁判所の庭にこの松があります。
今の裁判所の建物に建て替えられる前までは、ぼくを含め、子供達が毎日のようにこの松の木の周りで遊んでいました。
それだけに、この松は寂しそう。
布団掛けの松を見るために庭に入るのはOKなので、ぜひみなさんもこの松に会いに行ってやってください。

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最後に、2002年に撤去された我が家の旧宅。
最初に建築されたのは明治40年代でした。
当初は2軒が隣り合っていたのですが、昭和の初めにくっつけ合わせ、1軒の家に改築したらしいです。
狭い庭には杏(あんず)や柿、イチジクの木があったのですが、平成に入る前に全て伐採してしまいました。
イチジクや杏は毎年好きなだけ食べていたので、今でもお金を払ってイチジクを買う気にはなれません。大好物ではあるのだけど。
でも、今日だけはシリーズを完遂した記念に、ウオロクでイチジクを買ってきて食べるとしますか。

2014年10月 5日 (日)

新発田旧市街探訪 (32) 西園町1~大手町2丁目周辺

8月31日から始めた町歩きシリーズも、いよいよ大詰め。
旧市街と言えるような地域はくまなく歩いたつもりだったんですが、今日は少し漏れていた地域の写真をアップします。

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西新発田高校の松です。
今は男女共学ですが、かつては女子校でした。
学園祭で中へ入ったことがありますが、西校の敷地内は、ぼくみたいな清純な男子学生からみたら禁断の砦以外のなにものでもありませんでした。
正門をくぐったところにこの松はあります。
この松こそ、西高校の真の校長先生です。

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西高校前からマルフジ会館、松屋米店にかけて、新発田川の支流が流れています。
最終的には御幸町1丁目、美容室ともえさんのあたりで新発田川に合流します。
ひたすら川沿いに歩いてみるのも一興です。

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松の根本付近の塀に注目。
とても窮屈そうですが、松は全く意に介していないようです。

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旧神田商店。

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さくら堂の近くにありますので、探してみて下さい。
七所神社。

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妖精が出てきそうな小道を見つけました。
探すと、市内にはまだまだこんな小道があります。

2014年10月 4日 (土)

新発田旧市街探訪 (31) 本町2丁目周辺

JR新発田駅前から駅前通りをまっすぐ進むと、本町の交差点に出ます。
そこを右折して100mも進むと、右手に広い駐車場が現れます。
そこに、道路に面してひっそりと幾つかの石碑が佇んでいます。
大山祇(おおやまづみ)神社跡と書かれた石碑の右隣には、泉町を示す石碑が立っています。

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さて、下越地方には”山の神”信仰が密かに根付いています。
ぼくの両親は会津出身だったのでなおのこと、西会津町にある大山祇神社に対する愛着を生前持っていました。
ここにあったとされる大山祇神社は、もちろん西会津町のそれと同一系統の神社です。
それでは大山祇神社の総本社はどこにあるかというと、瀬戸内海に浮かぶ島、大三島にあります。
山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から崇拝を集めてきました。
源氏・平家をはじめ、多くの武将は、戦での武運長久を祈り、武具甲冑を奉納してきました。
そのため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているのです。
ぼくも昔一度訪れたことがありますが、それは壮観な眺めでした。確か、源義経奉納の鎧もあったと記憶しています。
仏教が大陸から入ってくる以前から、この種の信仰~自然神に対する~は日本人の精神構造の中に組み込まれていたのでしょう。

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道路の両側にはまばらに商店が立っています。
シャッターを閉じている店も多いです。

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裏通りに残る蔵。(写真は少し加工しています。)

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これらの長屋は”今”の風景です。
30年前に写した写真ではありません。

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寺町との境の裏通りの一風景。

2014年10月 3日 (金)

新発田旧市街探訪 (30) 本町1丁目周辺

JR新発田駅前からカルチャーセンター側へ向かって歩いていくと、トリム薬局の隣に神社が見えてきます。

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地図を見ると、天照皇大神と記載されています。
詳しい情報はネットで調べても出てこないのですが、次の写真に見られるように修験道の聖地である湯殿山の石碑が境内に見られることから、広く八百万の神々を祀ったお社であると思われます。

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神社の裏手には、このように舗装されていない道も未だに存在します。

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その小道を抜けると、ワゴードライ本町1丁目営業所のお店へ出ます(上の写真)。
須貝茶店の看板がありますが、もう営業はしていないようです。

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その通りを西へ歩いていくと、伊藤酒店の前へ出ます。
小学生の頃(もう40年以上前です)、たまにここへくじを引きに来たことがあります。
その頃は確か駄菓子屋さんで、1回30円だったか50円だったか忘れたけど、くじが引けました。当時の駄菓子屋さんには、そのようにくじを引かせてくれるところが多かったのです。
もちろんほとんどがはずれなのですが、はずれでも甘納豆がもらえました。
それが結構美味しかったもので、だめもとで引きにきたという次第。
今回この辺を数十年ぶりに歩いてみて、忘れかけていた記憶が鮮やかに蘇ってきました。

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左に新発田病院を見ながらさらに150mほど進むと三叉路に出ます。
そこから写したのがこの写真。
病院の全景を撮るには、お勧めのアングルです。

Img_5420

角には公園があり、小さな祠が建っています。
ここは大山祇(おおやまづみ)神社。社殿は地区の公会堂を利用しています。
明和二年(1767)の勧請。
小峰神社を合祀します。

2014年10月 2日 (木)

新発田旧市街探訪 (29) 御幸町2丁目(後編)

前回は旧三宜町(みよしちょう)にスポットを当てた記事を書きましたが、今日はそのテーマを離れ、裏通りの普通のスナップをお届けします。

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3丁目と2丁目の境にある五叉路の交差点、地図をよく見ると正確には6本の道が交差しています。それでは交通に支障をきたすので、うち最も細い1本が車の進入禁止になっています(1枚目の写真)。
そこから枝分かれしている小道も、このように柵があったりします。
これほど複雑に道が色々な角度で交わっているエリアは珍しいです。

Img_5403

1枚目の写真の小道を歩いて行きましょう。
右にワゴードライの工場を見送ると、まもなく上の写真の小道となります(反対方向から写しています)。
これはちょうど新野商店さんの裏側にあたる場所ですが、そこに大きな木が立っています。これも妓楼の面影を偲ばせる一風景でしょうか。

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先の小道は結構長く続いています。
500~600mは歩くでしょうか?道幅はずっと細いままで、お勧めの散策コースです。
最終的にはここに出ます。
大ものや釣具店さん。斎藤釣具店、倉島釣具店に次ぎ、古くからやっているお店です。
中学~高校と釣りキチだったぼくは、ここでも何度か餌を買ったことがあります。

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大きな通りをはさみ、今紹介してきた小道と対になっている小道がこれ。
やはり同じくらいの長さがあり、部分的には軽自動車がやっと通行できるかどうかというほど道幅が狭くなっています。
昭和の初期に形成されたものと推測されます。
終点は御幸公園です。

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途中、このように古い街並みが残っています。

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終点の御幸公園。
よく手入れされた芝生広場が気持ちいいです。
この公園からは住吉町2丁目になります。

2014年10月 1日 (水)

新発田旧市街探訪 (28) 御幸町2丁目(前編)~旧三宜町界隈~

御幸町2丁目は三宜町(みよしちょう)と呼ばれていました。
一帯は妓楼(ぎろう)が置かれていた場所で、月に宜し、雪に宜し、女は殊に宜し、ということでそのように名付けられたそうです。
その前にお断りしておきますが、ぼくは大学時代、民俗学を専攻していました。
特に女性史や風俗史を研究してまいりました。
ですから、決して興味本位の記事でないことをご理解頂きたいと思います。

さて、手元に1冊の大型本があります。
「新発田今昔写真帖」20世紀のふるさと100景~郷土出版社刊(2002年発行)
10年くらい前に買った本なのですが、この66ページに三宜町の写真が載っています。
(現在でもこの本は購入可能。また、新潟県立図書館に置いてあります。)
そこには2階建ての立派な建物が軒を連ねている様が写っているのですが、その豪華さに一目で魅せられてしまいました。
善し悪しは別にして、そこにはひとつの確固とした”文化”が写っていたのです。
戦前に撮られた第四銀行新発田支店の洋館風の建物にも言えることですが、それらの優れた建築物を見るたびに、文明ってなんだろうと考えさせられます。
それはさておき、他にも妓楼の写真を探したのですが、他の本に1枚載っていただけでした。

さて、「新発田今昔写真帖」66pの左上部の写真の説明に、誤解を与えるような表現があるので指摘しておきたいと思います。
「・・・その頃の名残に今なお盆栽仕立ての松が、華やかな時の思い出とともに残っている。」
とありますが、ここは御幸町3丁目。2丁目ではありません。
距離的にも400mくらい離れています。
これと同じ場所の現在の写真です。

Img_5050

石田商店の看板が目印。その向かいにくだんの松があります。
しかしながら、ここは長徳寺の裏側。すぐ10m背後に長徳寺があります。
長徳寺は1585年に創建された古刹。
そのすぐ後ろに妓楼が建設されることはありえません。
確かにこの松は当時からあったと思われますが、妓楼街まではかなり離れていますから、この松の周辺に妓楼があったという印象を与える文章は不適切であると思います。
新発田の妓楼の歴史ですが、最初に形成されたのは明治13年(1880)のこと。
場所は旭町。旭町は、石泉荘の近くになります。
そこが明治37年(1904)、火事によってあらかた消失してしまい、付近の民家にも被害が及んだので郊外に移されたという次第。
ちなみに、昭和9年の新発田新聞の記事によると、貸座敷(妓楼の別称)19戸、娼妓127名、取揚高12万2047円、遊興人員51,161とあります。
当時の新発田の人口を考えると、かなりの規模です。
戦争の足音が聞こえてくると商売を鞍替えする業者も出てきましたが、娼妓の数そのものは昭和33年売春止法施行直前の頃でも150名近くいたそうです。
先に挙げた写真集66pに載っている、他の2枚の写真には特徴的な松が写っていますが、何回も現地を訪れ、隅から隅まで歩いてみたら、いずれの松の木も現存していることがわかりました。

Img_0170

まずは、”昭和30年代”と題された写真と同じ場所と思われるところがここ。
66pとほぼ同じアングルで切り取った、今の風景です。
新野商店のガソリンスタンドの隣です。
妓楼街はガソリンスタンドのあたりまでであったと思われます。
大正年間に作られた地図も後ほど紹介しますが、そこに旧金原医院が記載されています(現在は大通りに移転)。
その右隣にこの松があります。
道のカーブの仕方が違うと思われるかもしれませんが、戦後の開発に伴い、道路が新しくできたため当時とは景観が異なるのです。

Img_5124

正面から写すとこんな感じ。立派な松です。
ちなみに、この敷地内にはあと4~5本、風格を湛えた松の老木があります。
次に66pの、昭和初期に写されたとされる、おそらくは三宜町のメインストリートと思われる一角です。
写真の説明文に弁天池という固有名詞が出てきますが、それがカギとなります。
たまたま御幸町3丁目に友人が住んでおり、その人のおばあちゃんが弁天池の場所を語ってくれました。
御幸町3丁目と2丁目の境にある、五叉路の信号のある交差点よりちょっと先にあったようです。
もう一度66pの写真を見てみましょう。左側にそこに写っている中で一番背の高い松の木があります。それと同じ松が次の写真に見られます。

Img_0174

場所的におおむね一致しますから、まず間違いないでしょう。
よく見ると、66pには背の高い松の両サイドにも1本ずつ松が写っていますが、それらの松も現存していることがわかります。
道路を隔てて左側にも、往事の面影を偲ばせる松がありました(次の写真)。

Img_0172

弁天池(瓢箪池)に面して生えていたのがこれらの松たちです。

Img_5712

これは大正6年(1917)9月に発行された「新発田町是 附図」。
この解像度ではピクセル等倍で見ても判別できないかもしれませんが、手元にある地図をルーペで拡大して見ると、旭町、並びに三宜町がはっきりと記載されているのです。
赤ペンで印を付けておいたので、参照してください。
特に三宜町のあたりは戦後、大栄町3丁目から御幸町3丁目を結ぶ道幅の広い直線道路が作られ、この道路の周辺は一気に開発が進みました。
なので、この古地図にない道路が御幸町3丁目~2丁目にたくさんできています。
ですから、今の地図と照らしあわせても、きっちり合致しないかもしれません。
この絵地図はデフォルメもされていますし。

Img_5722_25stitch_s

三宜町のメインストリートであったと思われる場所に立って写しています。
前方と背後に、蒼々たる妓楼の建物が軒を連ねていたはず。
ただし、写真の左側半分は、新たに作られたバイパス道路のため往事とは地形が若干異なります。
往事と変わらないのは右端の細い通り。
この通りの奥に、背の高い松が顔を覗かせていますが、それを正面から写したのが次の写真。

Img_5134

南はこのあたりまで、西は先にも書きましたがガソリンスタンドのあたりまで、貸座敷街が形成されていたものと推測されます(あくまで私の予測ですが)。

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最後に、「新発田今昔写真帖」66p右上と同じアングルを探して撮ってみました。
弁天池は思いの外大きかったようです。しかも、池は二つありましたし。
あの写真はもう少し左斜め後方から写しているものと思われますが、後ろには建物があるのでこれ以上下がれないのです。
また、あの写真は35mmくらいのレンズで撮られたものと推察します。
ぼくの写真は、35mm換算で27.2mmですから、レンズの焦点距離の違いによるパースペクティブの違いもありますが、おおむね同じ構図となっています。

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