新発田旧市街探訪 (34) 特別編~花街の歴史~
1週間ほど前に、大変興味深い資料に巡り会いました。
「新発田郷土誌 第十号」(新発田市史編纂委員会)です。
この本は毎号様々な角度から新発田の歴史や風俗に関する話題を取り上げており、興味が尽きません。
中でも今回、第十号の”新発田の廓を語る”(松田時次著)は面白かったです。
幾つか確かめておきたい点が出てきたので、改めて現地へ足を運び、再取材を重ねました。
10月1日の記事と一部重なりますが、改めて取り上げてみたいと思います。
尚、「新発田郷土誌 第十号」は新発田図書館の他には、新潟市のほんぽ~とにバックナンバーが置いてあります。
松田氏の一文に旭町と三宜町の絵地図が載っていたので、それをフリーハンドで書き写してみました。
それと、三宜町(現御幸町2丁目)に関しては地形が大きく変わっているため、現在の地図と大正時代に作成された地図を併せて貼り付け、比較しやすいよう、独自の資料を作成してみました。
(1)旭町の歴史
新発田の廓の歴史を語る前に、いつ頃から私娼が出現し始めたのかを検証してみます。
松田氏によると、十返舎一九は「道中金の草履」で新発田の”かぼちゃ”について触れているそうです。
かぼちゃとは、私娼を指す隠語。江戸時代末期から明治初期にかけて、小人町(現・大手町3丁目)や徒士町(現・大手町2丁目)に出没していたと言われています。
風紀の悪化を理由に何度も官憲は取り締まりを試みましたが、いたちごっこ。
明治8年には、歩兵第三連隊第二大隊が東京から新発田へ移駐してきました。
その後、歩兵代十六連隊の設置の話も出てきたため(明治17年6月設置)、当局は大局的な見地から、公娼が必要であるとの業者の主張を受け入れ、旭町(現・諏訪町3丁目)が朱印地として選ばれたのです。
こうして明治13年、新発田藩の武芸や馬術の訓練場だった旭町に、17軒の妓楼が集まり、廓の営業が始まりました。
ところが明治37年、新高楼から出火、隣接する上鉄砲町の民家50軒余を巻き込み、約70軒が焼け出されてしまいます。
もともと、廓が住宅街の近くにあるのは風紀上いかがなものかという声も少なからずあり、この火災をきっかけに、花街は思い切り郊外の伊勢堂地内(現・御幸町2丁目)への移転を余儀なくされたのでした。
正確に言うと、焼け残った1軒と、新たに同じ場所に新築した2軒の計3軒は引き続き旭町で営業を続けたのですが、新しい廓街に対抗できず、ほどなく三宜町へ3軒とも移転・合流したのでした。
その3軒の中の1軒が花菱。
花菱の場合は焼け跡に、市内にあった武家屋敷の一部を移築、そこで営業を続けていたのです。
まもなく花菱は三宜町へ移転しますが、その建物は現存しています。
それが石泉荘の離れ座敷(登録有形文化財)。
もともとの経営者が旭町へ移って以降、新津で製油を業としていた石崎家の所有となり、別邸として使われるようになったのです。
近年、この離れ座敷と庭園は一般公開されるようになり、ぼくも今年初めて見に行ってきたばかり。
花菱の歴史を思い起こしながら座敷に一人佇んでいると、当時のワンシーンがフラッシュバックしてくるような感覚に陥りました。
ぼくのこのブログでは、9月21日の記事で写真を掲載しているので、興味のある方はご覧になって下さい。
かつての旭町メインストリートです。
1枚目の資料でいうと、E地点から写した写真になります。
右側の石泉荘さんの駐車場は、かつての”えび屋”跡。
この辺は明治時代の区画がそのまま残っており、絵地図と現在の地図とがきれいに整合します。
左側には明治37年当時5軒の妓楼がありましたが、現在は6軒の住宅が建っています。
1枚目の資料でいうと、F地点から写真です。
本当に狭い通りです。
尚、新発田郷土誌第十号の”新発田の廓を語る”の記事に載っている旭町の絵地図は南が上になっています。
ぼくが作成した資料では、地図はすべて北を上にして描き直してあります。
(2)三宜町の歴史
松田氏の”新発田の廓を語る”の記事は、妓楼の経営者の子孫の方から直接お話しを聞いているので、非常に詳しく正確です。
1枚目の資料に掲げた”三宜町朱印全図”などは大変貴重なもの。
さて、ここでも困った問題が発生しました。
池の形や周囲の道路の形状が、やはり1枚目の資料に収録した大正6年に作られた地図ときれいに一致しないのです。
この界隈は戦後急速に開発が進み、道幅の広いバイパス道路ができたことで池は跡形もなく消失しました。
バイパス道路のできる以前、大正~昭和30年代初期の間に作られた市街図を探したのですが、見つけることができませんでした。
もっともあったとて、住宅地図が出現したのは割と近年のことですから、縮尺の大きさや正確さは期待できませんが。
10月1日の記事でも書きましたが、「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」に載っている写真がどこから写されたかを突き止めたいという思いがありました。
でも、昔の道路や目標物がほとんど残っていないため、現在の住宅地図上で正確になぞることができないのです。大体の場所は判明しているのですが。
「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」p66、昭和30年代に撮られたとされる写真をよく見たら、左隅の電信柱の先に左へ折れる小道がわずかに見えていることに気がつきました。
10月1日の記事、2枚目の写真と同じ場所には違いないのですが、あの本の写真同様、その小道への入り口がわかるよう写し直したのが上の写真です(A地点)。
ぼくの使用レンズは35mm換算40mmですから、あの本の写真は50mmの標準レンズで撮られたものと推察できます。
とにかく五叉路の交差点付近は新旧の道路が交錯しまくっています。
これはC地点からの撮影。思わぬ所に小路が隠されています。
こちらはD地点から五叉路の交差点の半分を切り取ったもの。
美容室の左側に車の通行不可能な細い路地が見えます。
昭和初期に作られた道路ではないかと推測するのですが、どうでしょう。
この美容室の右に沿って延び、神明神社へと抜ける道路は明治時代からあったもの。
1枚目の自作資料によると、緑のラインの道路にあたると思われます。
こちらはB地点からの写真。
ここからスタートし、ふかみ美容室の前を通って長徳寺方面へ抜ける小道は、やはり大正時代に作成された地図に記載の古い道(緑のライン)だと思います。
結局、三宜町の名残を示すもので現存している最もわかりやすいものは盆栽仕立ての松の大木でしょう。
1枚めの資料中央の写真をご覧下さい。
10月1日の記事にも書きましたが、この写真に写っている最も背の高い松と同じ木と思われる木が現地に残っています。
この中央の松の木が生き字引なのです。
池は二つあったようなので、「新発田今昔写真帖 20世紀のふるさと100景」66pの大きな写真(イコール1枚目の資料中央の写真)に写っている池がどちらの池なのかにより、妓楼街の配置は若干異なってきます。
おそらくあの写真は、池と池の中間の草地、大きい方の池の真後ろからメインストリートである西方向へカメラを向けていると思うのですが。
と、場所の特定のみに意識が向き、三宜町の歴史については触れていませんでした。
新発田郷土誌第十号の松田氏の記事の抜粋になりますが、56年に渡る三宜町での廓の歴史について、主な妓楼の移り変わりについて述べられています。
*若月楼 途中で経営者は北海道に渡り、相生楼が引き継ぐ。
*花菱楼 掛倉に移り、芸妓置屋に転身。新盛楼が引き継ぐ。
*岩名風呂屋が招月楼に転身。
*新潟古町の東京亭が神風楼を開く。
*佐渡から丸川清三郎という周旋屋がやってきて金鶏楼を始める。・・・etc
昭和14年頃から戦争の足音が高くなってくると、大半の土地は進出してきた軍需工場に身売りします。
終戦を迎え、残った業者(招月、常磐、三高、初音、新盛、相生)は引き続き営業を続けましたが、経営は苦しかったようです。
その後、招月は招月旅館に、相生は末広旅館に、初音は掛倉に移転し、久和原旅館に、新盛楼は関川村の雲母温泉で万代館を開業、三高楼は建物を改造してアパート経営に転身と、昭和30年代に各業者は各地に散っていったのでした。
ところで、各妓楼の前には、松やつつじが植栽されていました。
人の心を浮き立たせる演出の意図がありました。
盆栽仕立ての松が妓楼のシンボルと言われるのはそのためです。
あと、松田氏の記事を読んで印象に残ったのは、廓芸者の存在です。
娼妓のようにからだは売らず、三味線や鼓、横笛、太鼓や踊りなど、5~6才の頃から仕込まれた芸一本で身を立てていました。
この習慣はよその花街でも見られます。
芸のレベルは非常に高かったそうです。
ぼくは弁天池(瓢箪池)の場所を突き止めようとしてきましたが、そこには次のような背景があります。
もう一度、松田氏の文章を引用します。
「毎年8月12~13日のお盆の頃ともなれば、日没時からドンドン、ドドン、ドンドドンと遊郭踊りに合わせる独特の太鼓の音が遠く田舎の方まで響くと、近郷の若者達の心はうきうきしてくるのである。そして、やがて夜もふけかかる頃、元気のよいねじり鉢巻、浴衣着流しの者から、腰に手拭い、頭に鳥打帽の者など、町はずれの三宜町にぞくぞくと集まってくる。
廓の中ではどの座敷の門前も紅灯を競って灯し、中央の瓢箪池の周囲は角灯やぼんぼりが松の緑を水面に映して若者達の気持ちを一層かりたてるのである。
いつも禁足令の籠の鳥たちも入念に化粧して、艶を競ってなじみの客や野次馬客と池の周りを賑やかに、夜の更けるのも忘れて踊りに踊る。こうして20日頃までの約1週間、廓の夜は千客万来の賑やかさで明け暮れるのである。」
新発田まつりのけんか台輪や民謡流しもいいですが、このように幽玄な世界を一目見てみたいと夢想しながらこの章を終えます。
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はじめまして。ネットで新発田市の旧跡を調べていたところ、たどり着いた者です
旭町の遊郭ですが、近年まで妓楼の建物が1軒現存していたようです。新発田市史下に載っている写真を見る限りそこそこ規模の大き建物だったようです。
あと、別の項で書かれていた旧石黒邸の場所ですが、現在は商工会議所の駐車場になっています。また昔の歴史関係本で写真でよく紹介されている外ヶ輪裏にあった侍屋敷小田家は、八幡神社の左隣にありましたが、残念ながら取り壊されて別の家が建っています。
ところで、カルロス佐藤さんが街歩きをした当時、以下の建物は現存していたのでしょうか?
1、竹端医院(大正時代竣工の洋式建築)中央町1丁目 法華寺の隣、旧中央高校の裏 ※現在存在しない
2、中村家(土蔵造りの住宅)諏訪町3丁目 ※現在存在しない
投稿: 通りすがりの人 | 2018年6月27日 (水) 09時57分
通りすがりさん、コメント及び貴重な情報ありがとうございます。
商工会議所の駐車場はたまに利用します。新発田まつりのときとか、新発田寺びらきのときとか。ひょっとしたらこの辺が旧石黒邸跡かなと思っていたんですが、やはりそうだったんですね。ご質問の件ですが、ぼくの生家はカトリック教会の斜め前にありました。旧中央高校の近くです。しかし、竹端医院さんは記憶にないですね。ネットでちょっと調べてみたのですが、京都大学整形科学教室初代教授松岡道治の事績、業績というpdfファイルの資料に少し出てきました。それによると、島根県出身の竹端民之助という人が、新発田市の乾医院に最初赴任したそうです。その後、明治44年、五十公野町字七軒町に内外科を開業したとあります。この建物が撤去されたのは平成13年で、その際大正初期の洋風建築として、建築家による調査が行われたそうです。なので、場所は五十公野ではないでしょうか?
中村家については、そもそも諏訪町3丁目を歩き回ったのは今回が初めてだったので、昔のありようについては一切わかりかねます。ということで。
投稿: Toshihiko Sato | 2018年6月27日 (水) 12時28分