新発田旧市街探訪 (28) 御幸町2丁目(前編)~旧三宜町界隈~
御幸町2丁目は三宜町(みよしちょう)と呼ばれていました。
一帯は妓楼(ぎろう)が置かれていた場所で、月に宜し、雪に宜し、女は殊に宜し、ということでそのように名付けられたそうです。
その前にお断りしておきますが、ぼくは大学時代、民俗学を専攻していました。
特に女性史や風俗史を研究してまいりました。
ですから、決して興味本位の記事でないことをご理解頂きたいと思います。
さて、手元に1冊の大型本があります。
「新発田今昔写真帖」20世紀のふるさと100景~郷土出版社刊(2002年発行)
10年くらい前に買った本なのですが、この66ページに三宜町の写真が載っています。
(現在でもこの本は購入可能。また、新潟県立図書館に置いてあります。)
そこには2階建ての立派な建物が軒を連ねている様が写っているのですが、その豪華さに一目で魅せられてしまいました。
善し悪しは別にして、そこにはひとつの確固とした”文化”が写っていたのです。
戦前に撮られた第四銀行新発田支店の洋館風の建物にも言えることですが、それらの優れた建築物を見るたびに、文明ってなんだろうと考えさせられます。
それはさておき、他にも妓楼の写真を探したのですが、他の本に1枚載っていただけでした。
さて、「新発田今昔写真帖」66pの左上部の写真の説明に、誤解を与えるような表現があるので指摘しておきたいと思います。
「・・・その頃の名残に今なお盆栽仕立ての松が、華やかな時の思い出とともに残っている。」
とありますが、ここは御幸町3丁目。2丁目ではありません。
距離的にも400mくらい離れています。
これと同じ場所の現在の写真です。
石田商店の看板が目印。その向かいにくだんの松があります。
しかしながら、ここは長徳寺の裏側。すぐ10m背後に長徳寺があります。
長徳寺は1585年に創建された古刹。
そのすぐ後ろに妓楼が建設されることはありえません。
確かにこの松は当時からあったと思われますが、妓楼街まではかなり離れていますから、この松の周辺に妓楼があったという印象を与える文章は不適切であると思います。
新発田の妓楼の歴史ですが、最初に形成されたのは明治13年(1880)のこと。
場所は旭町。旭町は、石泉荘の近くになります。
そこが明治37年(1904)、火事によってあらかた消失してしまい、付近の民家にも被害が及んだので郊外に移されたという次第。
ちなみに、昭和9年の新発田新聞の記事によると、貸座敷(妓楼の別称)19戸、娼妓127名、取揚高12万2047円、遊興人員51,161とあります。
当時の新発田の人口を考えると、かなりの規模です。
戦争の足音が聞こえてくると商売を鞍替えする業者も出てきましたが、娼妓の数そのものは昭和33年売春止法施行直前の頃でも150名近くいたそうです。
先に挙げた写真集66pに載っている、他の2枚の写真には特徴的な松が写っていますが、何回も現地を訪れ、隅から隅まで歩いてみたら、いずれの松の木も現存していることがわかりました。
まずは、”昭和30年代”と題された写真と同じ場所と思われるところがここ。
66pとほぼ同じアングルで切り取った、今の風景です。
新野商店のガソリンスタンドの隣です。
妓楼街はガソリンスタンドのあたりまでであったと思われます。
大正年間に作られた地図も後ほど紹介しますが、そこに旧金原医院が記載されています(現在は大通りに移転)。
その右隣にこの松があります。
道のカーブの仕方が違うと思われるかもしれませんが、戦後の開発に伴い、道路が新しくできたため当時とは景観が異なるのです。
正面から写すとこんな感じ。立派な松です。
ちなみに、この敷地内にはあと4~5本、風格を湛えた松の老木があります。
次に66pの、昭和初期に写されたとされる、おそらくは三宜町のメインストリートと思われる一角です。
写真の説明文に弁天池という固有名詞が出てきますが、それがカギとなります。
たまたま御幸町3丁目に友人が住んでおり、その人のおばあちゃんが弁天池の場所を語ってくれました。
御幸町3丁目と2丁目の境にある、五叉路の信号のある交差点よりちょっと先にあったようです。
もう一度66pの写真を見てみましょう。左側にそこに写っている中で一番背の高い松の木があります。それと同じ松が次の写真に見られます。
場所的におおむね一致しますから、まず間違いないでしょう。
よく見ると、66pには背の高い松の両サイドにも1本ずつ松が写っていますが、それらの松も現存していることがわかります。
道路を隔てて左側にも、往事の面影を偲ばせる松がありました(次の写真)。
弁天池(瓢箪池)に面して生えていたのがこれらの松たちです。
これは大正6年(1917)9月に発行された「新発田町是 附図」。
この解像度ではピクセル等倍で見ても判別できないかもしれませんが、手元にある地図をルーペで拡大して見ると、旭町、並びに三宜町がはっきりと記載されているのです。
赤ペンで印を付けておいたので、参照してください。
特に三宜町のあたりは戦後、大栄町3丁目から御幸町3丁目を結ぶ道幅の広い直線道路が作られ、この道路の周辺は一気に開発が進みました。
なので、この古地図にない道路が御幸町3丁目~2丁目にたくさんできています。
ですから、今の地図と照らしあわせても、きっちり合致しないかもしれません。
この絵地図はデフォルメもされていますし。
三宜町のメインストリートであったと思われる場所に立って写しています。
前方と背後に、蒼々たる妓楼の建物が軒を連ねていたはず。
ただし、写真の左側半分は、新たに作られたバイパス道路のため往事とは地形が若干異なります。
往事と変わらないのは右端の細い通り。
この通りの奥に、背の高い松が顔を覗かせていますが、それを正面から写したのが次の写真。
南はこのあたりまで、西は先にも書きましたがガソリンスタンドのあたりまで、貸座敷街が形成されていたものと推測されます(あくまで私の予測ですが)。
最後に、「新発田今昔写真帖」66p右上と同じアングルを探して撮ってみました。
弁天池は思いの外大きかったようです。しかも、池は二つありましたし。
あの写真はもう少し左斜め後方から写しているものと思われますが、後ろには建物があるのでこれ以上下がれないのです。
また、あの写真は35mmくらいのレンズで撮られたものと推察します。
ぼくの写真は、35mm換算で27.2mmですから、レンズの焦点距離の違いによるパースペクティブの違いもありますが、おおむね同じ構図となっています。
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